喜びがわき起こる
2026,9.20 ルカの福音書15章8-10節
このルカの福音書15章は、イエスさまが語られた3つのたとえ話からなっています。先週は最初の「迷子の羊」を見ました。今日は2番目の「なくした銀貨」を見ていきたいと思います。
このたとえ話はたった3節しかありません。内容も簡潔です。
しかし、簡潔な話の中に大切な神の御心が示されていることを覚え、ここから、神さまの私たちに対するメッセージに耳を傾けたいと思います。8節から
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
女性が、失くした銀貨を捜すたとえです。この銀貨は、ドラクマという単位の貨幣で、一日の労働賃金のデナリより、やや高い単位です。ですから、この女性は、一日分の生活費がなくなってしまったというので、念入りに捜したということなのです。
しかし、この銀貨1枚の価値は、1日の労賃なのですが、ここでの銀貨は10枚がつなぎ合わされて、頭にかぶる冠のようなものだったらしいのです。これは結婚指輪と同じ役割を果たしていて、女の人が結婚した時に受け取るものでした。ですから、大事なのはその貨幣1枚の価値ではなく、その1枚が欠けて残りが9枚あっても、本来の用をなさないのです。
そんな大事なものの一部がなくなってしまったということは、彼女にとっては、それこそ一大事だったわけです。ですから、「見つけるまで念入りに捜す」わけです。
当時の家は、土が固められた床だったので、雑草が生えていたり、土ぼこりが立ったり、裂け目や凸凹がありました。
また、当時の家の中は、現代の家のようにガラス窓がたくさんあるような明るい家ではありませんでした。窓が小さく一つあるだけなので、床は暗くなっています。そして、そのような凸凹の床ですから、あかりをつけて、掃かなければ じっくりと隅々まで凝視して捜すことはできなかったのです。
「見つけるまで念入りに捜す」とありますが、これほどまでの熱心な思いで、捜してくださるのが主イエス・キリストなのです。そして、これが神の御心なのです。
元々、神がお造りになった被造物である人間が、罪を犯して失われてしまって、神の元から離れてしまった! それは、神がご自分の所有物を失ったことであり、だからこそ、神はこれだけの熱心さをもって私たちを捜してくださったのです。 そして、9節
見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
見つけた喜びを自分一人で味わっているだけでは足りなくて、友だちや近所の人たちにも知らせて、一緒に喜んでもらいたい、もう嬉しくて、嬉しくてしょうがない! はち切れるような喜びなのです。
こんな文章を見つけました。
大切にしていた指輪を自宅の中で紛失し、どこを探しても見つからないまま数ヶ月が過ぎていました。もう二度と会えないと諦めかけて大掃除をしていたところ、思いも寄らない家具の隙間の奥からひょっこり出てきました。
見つけた瞬間は「あっ!」と声が出てしまい、その場にへたり込んでしまうほどの衝撃でした。失くした悲しみと自責の念が大きかった分、何倍もの温かい喜びが胸に広がり、思わずその指輪を握りしめて涙が出そうになりました。
「戻ってきてくれてありがとう」という感謝の気持ちが湧き上がり、以前よりも大切に扱うようになりました。無くしたことで、その存在がいかに自分にとって大切だったかを深く思い知る体験となりました。
今日のルカ15:9は、迷子の羊を命がけで捜しまわり、やっと見つけて大喜びで、その羊を肩に担いで帰って来た羊飼いの喜びようと同じなのです。ですから、二人とも、友達や近所に人たちを呼び集めて「いなくなった羊、なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うのです。
そして、このたとえの結論が10節に示されています。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
迷子の羊のたとえの結論は7節でした。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
同じ結論です。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。 喜びが天にあるのです。」
「ひとりの罪人が悔い改めるなら」この言葉に改めて注目したいと思います。
罪とは、悪いことを言ったり行ったりすること、さらに法律を破ること、犯罪などはもちろん罪と言えますが、聖書が示す罪の元々の意味は「的外れ」、的を外すこと。神さまが示される、人間本来の生き方から、はずれている。別の方向を向いて生きている。神の意志、御心、神の言葉に従わない、神中心ではなく、自己中心の生き方をしている。これを罪と呼ぶのです。
信仰の初歩のような話をしていますが、日々の生活を振り返ってみて、いかがでしょうか?
ローマ3:10には
「義人はいない。ひとりもいない。」
また、ローマ3:23には
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」
とあります。 すべての人は罪人なんです。じゃあ、どうしたらいいんですか!
「悔改めるなら」とイエスさまは言われるのです。
クリスチャンであれば、だれもが悔い改めて、イエスさまを信じて信仰の歩みを始めました。 また、初歩的な話をしますが、新約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。この悔い改めと訳されている言葉はギリシャ語で「メタノイア」という言葉で、これは「心や考え方をガラリと変える」という意味で、簡潔に言うと「方向転換をする」ということなのです。 自己中心の生き方から、神中心の生き方へ、方向転換することなのです!
いかがでしょうか。今日は洗礼準備会とか洗礼後の信仰生活についての初歩の、基本的なことについての学びをしているような感じですが、でも、どんなことをするにしても、どんな学び、どんな仕事、どんな活動をするにしても、基本的なことをしっかり身に着けていなければ、上達、成長は望めないでしょうし、さらには喜びを得ることはできないでしょう。
みなさん! 自分は罪人だ、罪を犯しやすい者だ、という自覚はおありでしょうか? パウロは「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と告白しています。
さらにローマ5:20では
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
と語るのです。
「そうか、罪を重ねた方が、恵みが満ち溢れるほど注がれるのか!」ということではないのです。罪の自覚が深ければ、深いほど、こんな自分に注がれる神の恵みの豊かさ、大きさ、祝福の計りきれないことよ! と感嘆し、感動し、感謝しているのです。
だからこそ、ヨハネの黙示録3:19で
「熱心になって、悔い改めなさい。」
と命じるのです! これは非常に大事なことです。
「明確な悔改め」をなさっていますか? 日々、悔い改めの祈りをされていますか?
それを神さまが、また、み使いも一緒になって大喜びしてくださるのです。
天において、神に仕える御使いたちがいます。彼らは無数におり、主に対して大合唱して賛美します。神ご自身が喜び、その喜びを御使いたちが共有しているのです。
御使いが天において喜んでいるとのことですが、黙示録5章には、天に引き上げられた教会の姿があり、そのうしろで無数の御使いが大声で賛美しているのです。5:11-12
また私は見た。そして御座と生き物と長老たちとの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
私たち、失われていた者を、どこまでも、あきらめずに、捜し続けて、見つけてくださって、喜んでくださる、私たちの主に心からの感謝をもって、仕えていきましょう。
