天に喜びがわき起こる
更新日:2 時間前
2026,9.13 ルカの福音書15章1-7節
カレンダーでは21日、来週の月曜日が敬老の日になっていますが、なんと9月は19(土)~23(水・秋分の日)まで5連休。お出かけして、留守の方も多いだろうと思いますし、地域や、ご家庭で敬老の日のお祝いをなさる方もいらっしゃるだろうと考えて、教会では1週早く、今日、敬老感謝会を行うことにいたしました。
午後からご一緒に、お食事をしながら、しばし楽しい時をお過ごしいただきたいと思いますが、まずは、教会ですので、神さまからの祝福の言葉に耳を傾けて頂きたいと思います。
先ほど読んで頂いた聖書箇所は、新約聖書のルカの福音書15章の1~7節まででした。
まず初めの1-2をみてみましょう。
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
ここに4種類の人たちが出てきます。二人ずつ対になっています。取税人、罪人たちとパリサイ人、律法学者たち。 当時のユダヤ人社会では、劣等生グループと優等生グループという明確に立場が違う人たちでした。
なぜ、取税人、罪人たちが劣等生グループとされていたかと言うと、取税人は、異邦人であるローマ皇帝のために税金を取り立てる人たちで、神の選民であるユダヤ人からすると、彼らはローマの手先、犬であると言うのです。
また、罪人と言うのは、いわゆる犯罪者のことではなく、旧約聖書に定められている律法を守ることのできない人たち、たとえば羊飼いなどを指しました。
彼らは、安息日も休まずに、羊の世話をしなければならず、安息日の律法を破っていると言う意味で、罪人呼ばわりされていました。
そういう人たちが、イエスさまの話を聞こうとして、イエスさまの所に近寄ってきたのです。 すると、あの優等生グループのパリサイ人、律法学者たちがイエスさまに対して批判的なことをつぶやくのです。 それを聞いたイエスさまが、彼らに対して、ここから3つのたとえ話をされるのです。今日の所はその最初のたとえ話なのです。
このたとえ話は「迷子の羊」としてよく知られている話です。
みなさん、迷子になった経験があるでしょうか?
私は、小学校に上がる前まで、台東区の浅草千束町という所に住んでいました。浅草寺が割と近くにあって、境内でよく遊んだ覚えがあります。ある時、そこでお祭りがありました。そこにきょうだい4人で遊びに行ったのですが、途中で雨が勢いよく降ってきたのです。傘など持っていませんから、みんな急いで、ずぶ濡れになりながら家に向かいました。姉や兄たちは末っ子の私を心配する余裕もなく、走っていきました。気がついたら、私の周りには、一緒に行ったきょうだいが一人もいないのです! からだは雨でずぶ濡れ、頼りになる人は周りにいない、目に入るのは大人の脚ばかり。という状態で、突然一人だけ、取り残された気持ちになって、恐れと、不安と、寂しさとが襲ってきて、大声で泣き出してしまいました。 結局、ひとりで泣きながら、走って家にはたどり着いたのですが。今、思い返しても就学前の私にとっては、恐怖の経験でした。
迷子になった羊も、あの時の私と同じ思いでいたのでは、と思ってしまいました。
15章4~7節
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
羊という動物は、羊飼いがいないと自分では生きていくことができない生き物です。どこに草があるのか、どこに水があるのかもわかりませんから、羊飼いが彼らをそこに連れて行かなければなりません。 また、羊に羊飼いが必要なのは、ただそれだけではありません。狼が襲ってくるとき、羊を守ってやらなければ、彼らは自分で逃げられる速い足もなければ、抵抗できる力もありません。すぐに餌食にされてしまうほど弱い生き物だからです。
さらに、羊は羊飼いがいても、群れを離れて、どこかへ行ってしまう事があります。1匹だけが夢中で草を食べ、ほかの群れから離れてしまい、気がついた時には、羊飼いもほかの羊もいなくなっているということがあるのです。
その時、羊飼いはほかの羊をそこに残しておいても、いなくなってしまった羊を探し求めて歩き回ります。 危険な谷間に落ちている羊を見つけた時には、命がけでその羊を救い出します。 また、疲れ切ってしまい、しゃがみ込んでいて、鳴き声も出すことができず、動けなくなってしまっている羊を見つけ出すこともあります。
そして、捜し出した時には、その羊を肩に担いで帰って来るのです。帰って来ると、友だちや近所の人たちを呼び集めて、みんなで喜びます。
このたとえ話でイエスさまは、何を教えようとしておられるのでしょうか。
ここで、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩いた羊飼いにたとえられているのは、神さま、イエス・キリストです。イエスさまは自ら、ヨハネの福音書10:11で
わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。
と語っておられます。 良い羊飼いとは、どんな羊飼いなのでしょうか?
ここにあるように、羊のためなら、命を懸けてまでも助け出す、捜し出す、あきらめない
羊飼いです。 99匹いるのだから、1匹くらいいなくなってもまあいいか、とは思わずにどこまでも捜し続けるのです。
では、いなくなった、迷子になった1匹の羊にたとえられているのは、だれでしょう? それは、私たち一人ひとりなのです。 どういうことでしょう?
私たちは誰もが、意識する、しないに関わらず、みんな何らかの不安を抱えて生きているのではないでしょうか? 経済に対する不安、人間関係、病、また、大きな災害に見舞われるのではという不安、そして、死に対する恐れ! まさに迷子になってしまった羊と同じなのです。
羊飼いから離れてしまった羊は、生きることに不安を抱かなければならなくなってしまいます。その迷子になってしまった羊である、大切な、大切な私たち一人ひとりを、羊飼いであるイエスさま今熱心になって、どこまでも捜し求めておられるのです。 そして、捜し出した時の喜びは大変なものであり、9節では「神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあるのです。
私の息子が3歳くらいの時、私の母、彼にとってはおばあちゃんと散歩に出て迷子になり、警察にも連絡して必死になって捜し歩きました。しばらくして、交差点で一時停止したパトカーの中を見てみたら、なんと二人が乗っているではありませんか。 その時の私の喜びようといったら、これ以上のものはありませんでした!
羊飼いが、いなくなっていた一匹の羊が見つかったことを喜ぶように、イエスさまは、ご自分のもとに帰って来た一人ひとりを喜ばれるのです。
「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。」と言われた
イエス様は、この言葉の通り、十字架の上で御自分の命を捨てられました。
それは、神様から離れた、私たちが受けるべき罪の罰の身代わりとしての死でした。イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、父なる神様のもとに立ち返る道が開かれたのです。
十字架にかかられたイエス様は三日目に復活され、今も生きておられるお方です。そして、私たちが神様のもとに帰るように、今も私たちを捜し求めておられるのです。
神様は、私たちが一人でも悔い改めることを心から願っておられます。 悔い改めとは、自分の力で何でもできるという思いを変え、謙遜に神様に頼って生きることです。
十字架に架かり、あなたのために死なれた、イエス・キリストを信じて救われて、永遠の命に生かされること神様は今も願い、そのことを喜ばれるのです。
