死んでいたのが生き返り
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 3 日前
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2025,4,20 ルカの福音書15章11-24節
今日は、クリスマスにも負けず劣らず大切な喜びの日、イースターです!
イエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられた日、私たちは、この喜ばしい出来事を心の底から感謝して、大きな声で、イースターをお祝いいたしましょう!
「イースターおめでとうございます! 神様!感謝します!」
(1)父から離れて
今日の聖書箇所は、「放蕩息子のたとえ」と言われている話です。まず、ルカの福音書15章11~13節をみてみましょう。
またこう話された。「ある人に息子が二人あった。弟が父に『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代を二人に分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
弟息子の方が父の財産を分けてもらって、数日の間に親元を離れて遠い国に旅立ちました。15章の後半を見ますと、兄息子も出てきます。お兄さんは優等生で模範生、弟は劣等生でしたが、両方とも親から心が離れていました。弟は物理的に遠く離れていましたが、お兄さんはそばにいても、お父さんの心が分からなかったのです。
これは、現代人が神様から離れて、いいえ、ある者は神の近くにいると思っていても、神の心がわかっていないということを、象徴的に、たとえでイエス様が話された内容であると、受け止められるのではないでしょうか。
弟が『財産をくれ』と言ったのは、夢があったからだと考えることも出来ます。親というものは、子どもの夢を聞いたら、何でもしてあげたい、応援したいと思うものでしょう。
「お前がそういう考えであるならば、いいだろう。でもな、お金があると悪い者が近寄ってくるから、だまされないように注意するんだぞ。もし商売をしようとするなら、腰を低くして、成功できるように、良い人間関係を作るんだぞ。」
お父さんは、財産と一緒に、自分の持てるありとあらゆる知識を授けて息子を送り出したのではないか、と思います。
お兄さんについては、弟が戻ってくると、「お父さん、私はこんなに真面目にあなたに仕えてきたのに、私には友だちと一緒に楽しめと言って、一度だってごちそうしてくれたことがなかったじゃありませんか!」と文句を言うのです。29節には「長年の間、仕え」てきた、とあります。この『仕える』という言葉は、原語では、奴隷がご主人に仕える時に使う特別な強い言葉が使われているのです。そういう意味で、弟の心の中には、(真面目でも、兄貴はオヤジの奴隷だ。オヤジの言うことを聞いて、媚を売っているけど、あんな不自由な人生はヤなこった!俺は自由を求めていくんだ)という、自由を求める気持ちがあったのではないでしょうか。
考えようによっては、人は、いろいろなものに束縛されていると言えるでしょう。会社や仕事に縛られている。でも、やむを得ません、生活のためには。 また、家族に縛られています。それも、責任がありますから、やむを得ません。 一切のものから自由になりたい、という思いはいつの時代にもあることでしょう。
パリサイ人や律法学者は真面目ではあったでしょうが、不自由な、喜びのない人生を過ごしていました。 弟はそういうことを批判して出て行きました。 しかし、外に出たら自由になれたかというと、人生はそんなに甘くありませんでした。お金がある時には人が寄ってきましたが、お金がなくなると、人々は去って行きました。「風と共に去りぬ」ならぬ、「金と共に去りぬ」ですね。
(2)我に返って、父のもとへ
14~16節をみます。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
自由に、思い通りにうまくいくと思っていたが、彼はお金を使い果たして無一文に。
そんな状況下で、追い打ちをかけるように、その国に大ききんが起こった!
彼は豚飼いになりました。現代人は豚を食べますが、当時のユダヤ人にとっては、豚は律法で、汚れた動物とされており、触れてもいけないし、もちろん食べてはいけないものでした。「落ちる所まで落ちた」ということなのです。彼は、ひもじくて、豚のエサでも食べたいと思ったほどでした。 そして、17~20節には
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父の所にはパンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
「我に返った」は当時のユダヤ人の悔い改めを示す言葉です。彼は、「お父さんに悪いことしちゃったなあ」と思っただけではなく、「天に対して罪を犯しました。」と、神が与えてくださった財産、時間、人生、それを無駄にしたことに対して、また、神に背を向けて生きてきたことに対し、悔い改めるのです。さらに「私は、もう息子と呼ばれる資格はありません。」との決意までしたのです。
やがて、懐かしい我が家が見えてきました。一人の人物がこちらに走ってきました。近づいてくるその人は何とお父さんでした。 当時の主人は、走るなどということは威厳を損なうので、相手が走ってくるのを待つのが常でした。しかし、このお父さんは、「かわいそうに思って、走り寄って」とあります。この「かわいそうに思って」という言葉は、原文では「はらわたがちぎれるほど」というような意味を持っています。 自分勝手な事をして出て行った息子なのに、心配して毎日待っていたのです。ある日、その息子が帰ってきました。まだ遠くにいるのに、走り寄って、息子を迎え入れ、抱き、口づけして、愛を示し、喜んだのです。 21節
息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
そして、「雇い人のひとりにしてください。」と言おうとしたら、お父さんは「もう十分」とそれを遮るように 22~24節
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
(3)最高の喜び
今日の中心メッセージは「死んでいたのが生き返り」という24節です。
愛する者が、死んでしまって悲しみのどん底にある時に、「生き返りました!」と言われたら、 もう喜びが爆発するでしょう。
今日のお父さんは、息子はもう死んだ者と思っていた! でも、帰って来た!まさに、父親にしたら「死んでいたのが生き返った」のです。喜びが頂点に達したのです。
この父の姿は、神様! 放蕩息子は私たちの姿を現しているのです。 神さまから離れ、本当の喜びを知らずに歩んでいた私たちを、神さまは忍耐を持って、待ち続けてくださり、大きな愛をもって、喜んで受け止めてくださるのです! エペソ人への手紙2章1節、私たちは
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者
と聖書は言うのです。しかし、第1コリント6章14節には
神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
と神の約束の言葉があるのです。 今日はイースターです。
イエス様は完全に死なれましたが、よみがえられました。父なる神様のご計画は、イエス様が死んで3日目によみがえるというものでした。人間の罪のために十字架に架かり、完全に死んで人類の身代わりになって捨てられ、罰せられたイエス・キリストは、死んで終りでなく、3日目によみがえられました。 イエス・キリスト様は、事実よみがえったのです!!
マタイの福音書には、復活されたイエス様が女性たちに現われて、「おはよう」と言われましたが、別訳では「喜びがあるように」となっています。 復活されたイエス様は、弟子たちに出会って開口一番「喜びなさい」とおっしゃったのです。キリスト信仰は喜びの信仰です。イエス様は死んでいたのに生き返りました。よみがえられたのです! 私たちもこの復活信仰を頂いている者として、喜んで与えられた人生を生きていきましょう。 ヨハネの福音書11章25節 キリストの言葉
「わたしはよみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」