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死の向こう側

更新日:2 時間前

2026.10.25 ルカの福音書16章19~31節  

 

 

 イエスさまは、いつも身近なもの、身近な事をとり上げて話されるので、その話はとてもわかりやすいのです。今日の聖書箇所も、内容自体は理解しやすい話です。

 今日は19節からですが、

 

 ある金持ちがいた。

 

と話し始められるのですが、それまでの話と違うのは、次の20節

 

 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が・・

 

とあって、「ラザロ」と名前で呼ばれる人物が出てくるのです。

 今日はここから、イエスさまが私たちに何を教えようとしておられるのかを見ていきたいと思います。まず19節

 

  ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

「金持ち」とありますが、この金持ちは大金持ち! 紫色の衣や細布を着て暮らすのは、大金持ちか高貴な人、そういう人の服装です。

 着たいものがあれば何でも着ることができる、欲しいものは何でも手に入れることができる。食べたいものがあれば、何でも食べられる。したいことは思うようにできる。そういう毎日を過ごしていました。まさに、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた大金持ちがいたということなのです。

 ところが、この金持ちとは正反対の人物が彼のすぐ近くにいました。20-21節

 

  ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

 この話は「金持ちとラザロ」と呼ばれている話です。イエスさまが語られる話では、殆どの人は「ある人が」という表現になっています。しかし、今回は「ラザロ」とはっきり名前を言っているのです。

 このラザロという名前の意味は、「神は助ける」「神は助け主」という意味があります。ですから、彼は神の助けなしには生きていけない、そういう生き方をしていたのでしょう。 ということは、信仰をもって、神により頼みつつ生きてきたのです。

 いっぽう、金持ちは、贅沢三昧の生活をしながらも、自分の家の門前にいる貧しいラザロに対しては、何もしてやらない、何とも思わないで、自分の生活だけを楽しんでいました。 ラザロに対してかわいそうに、とか思う憐みの心などまったくない! つまり、信仰がない、あるいは形だけの信仰だった、ということが分るのです。

 ここで、ひとつ思わされるのは、私たちも神さまから与えられた富をどう用いるか、用いているかが問われているのではないか、ということです。

22-23節

 

 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

ここからが今日の中心的な内容です。 どんなに大金持ちも、どん底の貧乏人も、やがてはみんな死を迎えます。死は平等にやって来ます!

 ここで大切なことを理解しておいていただきたいと思います。 イエスさまは、

 

 ラザロは死んで「アブラハムのふところ」に連れて行かれ、

金持は死んで「ハデスで苦しんで」いる

 

と語っておられるのです。

 イエスさまは、人は死後「アブラハムのふところ」か「ハデス」に行くか、どちらかだ、と語られるのです。「アブラハムのふところ」と言う言葉は、ここにしか出てきませんが、イエスさまが十字架上で、隣で信仰告白した強盗に向かって「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたパラダイスと理解して良いと思います。

 また、ハデスという言葉は新約聖書に9回出てきます。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、旧約聖書はへブル語で書かれています。ギリシャ語のハデスは、へブル語ではシェオルと言ってすべて「よみ」と訳されています。ちなみに、最も新しい「新改訳2017」では、新約聖書のハデスはすべて「よみ」と訳されています。

 まとめると、人は信仰をもって死んだら、パラダイスに行き、信仰を持たない、拒絶した人はハデスに行って苦しむ、というのです。

 このところは、イエスさまが死後のことについて語った貴重な箇所ですので、私たちは厳粛に受け止めなければならないと思います。 

 間違えないで頂きたいのは、これが天国と地獄ではない、ということです。別の言い方でいうと、永遠の命を頂くのか、永遠の滅びに至るのかは、一般的に言われている「最後の審判」の後、黙示録20:11-12にある「白い御座」の前にすべての人が立たされて、裁かれ、そこで決められるのです。

「アブラハムのふところ」「ハデス」は最後の審判までの中間状態であって、「アブラハムのふところ」は天国行き、「ハデス」は地獄行きの待合室、と理解してもいいのではないでしょうか。 

 金持ちは死後、アブラハムに向かって叫ぶのです。 24-26

 

 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

 

死後は立場が全く逆転していることが、描かれています。

 そして、ハデスとパラダイスを行き来することはできない、と厳然とした隔たりがあることが示されています。

 そこで彼は、自分の兄弟のために願うのです。27-28、30

 

  彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 『もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

 

こんな苦しい所に、来ないように、せめて兄弟に知らせてください。死んだラザロが生き返って、伝えたらきっと信じるでしょうから! というわけです。

 それに対してアブラハムは何と言っていますか 29節

 

  『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

 

「モーセと預言者」つまりユダヤ人が最も大切にして守るべき生活規範、旧約聖書のことです。 しかし、この金持ちも、彼の兄弟も表面上は守っているようだけれども、「正義とあわれみと誠実を、おろそかにして」いたのです(マタイ23:23)。

 金持ちは、ラザロが生き返ったら、その奇蹟によって信じるだろうと考えました。しかし、アブラハムは、ダメ押しをするのです。31節

 

 『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

 

彼らには、神の言葉、聖書がありました。読んでもいたでしょう。

 しかし、聖書があっても、聖書を読んでいても、メッセージを聞いていても、それを

自分に語られている神の言葉として受け取らなければ、結局は、自分の考え、自分の思い、自分に都合の良い生き方をしてしまうのです。 

 私たちは、もう一度みことばに対する姿勢を吟味する必要があるのではないでしょうか?  1ペテロ2:2にこうあります。

 

  生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 

慕い求めて、確かに神さまが語られていると思ったら、従うことが大切なのです。神さまに対し、み言葉に対して従順していくことこそが信仰生活そのものであり、それが神の祝福に与る秘訣なのです。

 みなさんは、み言葉を、神さまからの語りかけを頂いた時、それに対して、具体的に行動を起こしているでしょうか?  ヤコブ1:22のみ言葉を心に刻んでおきたいと思います。

 

  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

 
 

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