キリストを求めて生きる
2026.10.18 ルカの福音書16章14~18節
イエスさまは、これまで15章で3つ、16章に入って1つと、4つのたとえ話を連続して語られました。取税人、罪人たち、また弟子たちに対して語ったのですが、その場には、パリサイ人や律法学者もました。
前回の話では、不正な管理人の抜け目のなさをほめ、不正の富を用いて友を作りなさい、と語り、最後は、13節で
「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
と結論づけるのです。
ここまで聞いていたパリサイ人たちの反応が14節にあります。
さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
ここで単にパリサイ人、と言わないで、「金の好きなパリサイ人たち」と書かれています。 「不正の富」「この世の富」について語ったすぐあとで、わざわざ聖書は「金の好きなパリサイ人たち」と記すのです。
この「金の好きな」という言葉は、訳の違う聖書でいろいろな言葉で表現されています。
口語訳、現代訳は「欲の深い」、文語訳「欲深き」、新共同訳「金に、執着する」、
詳訳「貪欲な」<金を愛している>、リビングバイブル「金に目のない」
当時のパリサイ人は、「律法を細かい所まで厳格に守っている人、また人々にもそれを求める人」と見られている人たちでした。
ですから、物欲とか名誉欲とかといった、この世の欲からは縁遠い人たちのように思われていました。 しかし、聖書は彼らを「金の好きな」「欲の深い」パリサイ人と表現するのです。
実は、この時代のパリサイ人が、いかにこの世の名誉を求め、またこの世の富を求め、それに執着していた者たちであったかが分かります。もっとも、確かに彼らは律法に熱心でした。けれどもそれは形の上だけのものだったのです。
彼らは定められた祈りの時を必ず守りました。あるいは施しもしました。献金も、捧げものも、必ず十分の一をしていました。
しかし、イエスさまはルカの福音書11章でパリサイ人をこのように責め立てるのです。42節
だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。
とあります。「はっか、うん香」これは薬味、香辛料です。わずかなものです。彼らはこうしたわずかなものでも手に入ると、必ずその十分の一を分けて、それを宮に納めるのです。だから、ほんの小さい所に至るまで、律法によって十分の一をささげるということをしていました。 また、施しもしていました。だから彼らが、欲が深いようにはとても見えないのです。 律法を忠実に行っているという自負もありました。 しかし、そうした表面に表れた形の一方で、陰に隠れて、彼らは貪欲な面も持っていたのです。
この世に富を蓄えること、また地位、名誉、人の前における誉れ。本当に立派なパリサイ人、律法学者だと、この世で尊ばれることに対しても、非常に貪欲でした。 この時代のパリサイ人にはそういう者たちが多かったのです。 まさに、ルカ18章に出てくるあのパリサイ人のようです。 11-12節
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
このように、祈りの中で自分を誇るのです。
そういう彼らに向かってイエスさまは語るのです。 16:15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。
自分を正しいとする者を、神は憎まれ、嫌われるのです。
それに対して、先ほど見たルカ18章のパリサイ人の後で祈る取税人については、こうあるのです。13-14節
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
聖書が一貫して語っている内容ですね。
今日の中心的な内容の16節を見ていきます。
律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。
「律法と預言者」、これは旧約聖書全体を指します。特に、ユダヤ人の生活規範であった、律法を指していると言ってもいいでしょう。 しかし、イエスさまが来てくださったことによって、新しい福音の時代に入り、神の国が宣べ伝えられ始めたのです。神の国の平安と喜びに満たされたすばらしさを聞かされたら「だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています」ということになるのでしょう。
すごい表現ですね。神の国、神の御支配の中に自らを委ねたら、簡潔に言うと、クリスチャンになったら、人生の不安と恐れから解放されて、平安と喜びの人生に変えられる! だとしたら、何としてもここに入らねば! という表現です
クリスチャンになって、すぐに変わる人もいますし、徐々に変わっていく人もいます。しかし、どんな人でも必ず変わります。イエスさまが心の中に住んでくださっているのですから! もし、まだクリスチャンになる前と同じ考え、同じ価値観の中に生きているとしたら、すでに心の中にイエスさまをお迎えしているのだ、ということを覚えてください。
そして、日々聖霊に満たされて歩めるように、朝、まずデボーション=祈りとみ言葉によってイエスさまと交わって、一日をはじめ、いつもイエスさまに心を向けて歩んで行くことです。 そういう歩みの中で、神の御心が示され、教えられていくのです。
内村鑑三という人は、かつて自分の罪に悩んでいた時に、アメリカにまで、魂の平安を求めに行きました。まさに、神の国を求めてのことです。
新島襄の勧めによって留学をするわけですが、大学に入る前に、ペンシルベニアの精神的に病を持つ子供たちの施設で働きました。そこで一生懸命働いて、子供たちの下の世話までもしました。 そういうことをすれば、魂の救いを得るか、平安を得るか、と熱心に働きましたが、そういうことでは魂の平安を得ることはできませんでした。
その後、アーモスト大学の3年に編入するのですが、そこで出会ったのが、牧師でもあるシーリー総長でした。かれは、精神的に傷つき、キリスト教の信仰にも疑問を抱いていた内村を温かく迎え入れ、父のように、また良き理解者として個人的に深く寄り添いました。
それまでの内村は、「自分が正しくあらねばならない」「罪を犯してはならない」という道徳的な強迫観念に縛られ、苦しんでいました。シーリー総長は彼に、「自分の力で義人になろうとするのをやめ、ただキリストの十字架による贖(あがな)いを信じ、委ねなさい」と説きました。
1886年3月8日の夜、内村は自室で祈る中で、にわかにその真意を悟ります。自分の罪がすでにキリストによって赦されているという圧倒的な解放感(福音の核心)を得た内村は、ベッドの脇に跪き、涙を流して感謝の祈りを捧げたというのです。
彼は、魂の救いを、神の国の救いを、心の底から求めて、明治の時代に、わざわざ遠い外国にまで出かけて行ったのです。 その求めは、まさに全存在を挙げての求めでありました。
私たちはどのように、日々、イエスさまを求めて生活しているでしょうか?
私たちが日々生きていくためには、いろいろなものが確かに必要です。しかし、私たちが求めるべき第一のものは、イエスキリストご自身であることを忘れてはならないと思います。 ですから今日も、マタイ6:33をもって締めくくりたいと思います。
だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
今週も、このキリストを熱心に求めて歩んでいきましょう!
