小さな事にも忠実であれ
2026.10.11 ルカ16章1~13節
前回まで見てきた、ルカ15章では、イエスさまの3つのたとえ話が語られました。イエスさまの話は、聞く者にとって、常に、とてもわかりやすい内容ばかりで、理解し、納得して受け入れられるものでした。
ところが、今日の箇所は、必ずしもそうと言えない内容なのです。話の筋自体は、難しくはないのですが、イエスさまがなぜこんな話をされたのか、しかも不正なことをした管理人の、抜け目のなさを主人がほめるという話。なぜ、そのような話をされたのか、とまどいを覚えます。
不正なことをする人間を戒めるならまだしも、イエスさまがそれをほめるということは、どういうことなのだろうかと、だれもが思うのではないでしょうか。
ですから、この箇所は難しい、難解な箇所といわれ、何回読んでも、よく理解できない所だ、と思われているのです。
イエスさまがこの不正な管理人の話をされたのは、放蕩息子の話をされたすぐあとでした。15章での3つのたとえ話は、取税人、罪人、またパリサイ人、律法学者たちに対して語られましたが、この不正な管理人の話は、弟子たちに対して語られました。
弟子たちは、この話を聞いてびっくりしたと思います。イエスさまが不正な管理人のしたこと、それを主人がほめていること、さらには、不正の富で友を作れ、などと言われて、驚き、とまどったことと思います。
この不正な管理人は、主人の財産を乱費していました。自分のものでないものを、自分のために使っていました。 そして、そのことが主人にわかってしまい、会計報告を出すように命じられるわけです。その時、彼は自分の立場や知恵を巧妙に使って、将来に備えるのです。知恵と言っても、悪知恵なのですが。 具体的には、主人に対して負債のあった債務者を呼んで、その負債の額を削ってやります。そして、あとで、自分が首になった時、この人たちにしてあげた恩義によって、自分の職を得ることができると考えたのです。
そしてイエスさまは、この主人が不正な管理人の余りに抜け目のないのを見て、ほめたと言われ、弟子たちにも、この世の人びとの抜け目のなさから学べと言われたのです。
弟子たちは、これを聞いてびっくりしたでしょう。そんな不正な管理人のマネをしろというのですか! と憤慨したかもしれません。
しかし、イエスさまはこの世の人びとの抜け目のなさを、この世においてせよ、とおっしゃっているのではありません。 神の国においてせよ、もっと言うなら、神の国の建設のために、不正の富を用いよ、とおっしゃっているのです。
「不正の富」とありますが、富に不正も正当もあるのでしょうか。ここでイエスさまが言っておられるのは、そういうことではなく、「この世の富」のことを言っておられるのです。
「この世の富」と言えば、まずお金をイメージします。お金それ自体は、善でも悪でもありません。しかし、テモテへの手紙第一の6章10節に
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」
とあります。
なぜ、人はお金を愛したり、それを求めたりするかというと、世の中はどんなものでもお金に換算して物事が評価されるからです。毎日の生活のためにも、子供の教育費のためにも、何をするにもお金が必要となってきます。
聖書は、私たち人間は生れながらの罪人です、と語ってます。なので、お金が手段として必要なのだというところから進んで、お金を得ることを目的とするようになってしまうのです。 そして、それがやがて、お金さえあれば何でもできると考えて、何としてでもお金を得る、お金第一主義とでも言いましょうか、お金や富の奴隷になりかねないのです。
それでは、お金や富の奴隷にならないためにはどうすればいいのでしょうか。それは「どれだけ主に堅く結びつき、主からの素晴らしい恵みを頂いているか」にかかっています。 そうであれば、お金も主のために稼ぎ、儲け、それを主のために使うことができるようになるのです。 聖書に戻ります9節
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
ここでイエスさまが言っておられる「不正の富」とは、お金だけではありません。現代訳聖書では、この「不正の富」を「この世の富」と訳し、また、詳訳聖書は「見せかけの富、金銭、財産」と訳しています。
私たちに与えられている富はお金以外にもたくさんあります。私たちの健康も、才能も、知識も、社会的な地位や名誉も、また子供もそうでしょう。それらは自分のもので、自分のために使うのは当たり前だと思っていないでしょうか。 世の中の人は大部分がそうだと思います。
しかし、クリスチャンはそうは考えないのです。それらすべては、主が与えてくださったもの、いえ、主から預けられ、任されたもの、と受けとめるのです。ですから、私たちはそれを管理する責任があるのだと聖書は語るのです。
10節では、「不正の富」のことを「小さい事」と言い替えています。この言葉は原語のギリシャ語を直訳すると、「問題にならないくらい小さな事」となります。 この世のものは、たとえこの世においていかに評価されようとも、神の目からご覧になると、問題にならないくらい小さなものであるというわけです。
これに対して「大きな事」と訳された言葉は、原語のギリシャ語を直訳すると「重大な事」となります。つまり、神の国のことは、実に重大な事なのだということなのです。
主がここで教えておられることは、この世において私たちが神から任されているもの、それがお金であれ、家であれ、財産であれ、健康であれ、能力であれ、何であれ、自分に与えられている、すべてのものを用いて、信仰の友を作りなさい、神を信じる者を、クリスチャンを作りなさい、一生懸命に伝道し、人々を救いに導きなさいということです。
私たちは、改めて、神さまから託されている大切な使命を確認したいと思います。第二テモテ4:2
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
これは伝道者だけに言われたものではありません。すべてのクリスチャンに命じられた神の言葉なのです! しかも 主はこうも言われました。 10-11節
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
神様から任されたものを忠実に管理するということは、それを自分のためにだけ使うのではなく、神さまに対し、また、ほかの人に対して用いるということです。
神さまは、ひとり一人に大切な働きを託しておられます。 与えられ、委ねられたもの、時間やお金や能力、賜物を自分のためにだけに、使うのではなく、神の国の前進のために用いることが求められているのです。
最後に主はこう言われました。13節
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。」当然のことですね! ここで主が結論として教えておられることは、神に救って頂いた者は、神のみに仕えるのだ! ということです。これは決して強制的な決まりや定めではありません。自ら進んで仕えるということです。
人は、何を大切にするか、何を優先させるかによって生き方が決まります。ですから、神第一の生き方こそ、真に自由な生き方であり、感謝と喜びにあふれた、神に祝福された生き生きとした生き方なのです。
今週も、神さまを第一とした歩みをしていきましょう。
