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更新日:1 日前
<もう一人の放蕩息子>
2026,10,4 ルカの福音書15章25-32節
先週はイエスさまの「放蕩息子のたとえ」についてみました。一般的には、その弟息子のことを「放蕩息子」と呼ぶわけですが、今日はもう一人の放蕩息子と言ってもよい、兄息子に焦点を当てて見ていきます。 ルカ15章25-27節
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
「兄息子は畑にいたが」とあります。彼は毎日畑に出て真面目に働いていました。お父さんに従順に従って、一生懸命働いていました。彼を一言で言い表すなら「真面目人間」でしょう。几帳面で、働き者。という姿が浮かんできます。
弟息子とは正反対の性格で、自分を主張することもない生き方をしてきたのでしょう。周りの評価も「働き者の孝行息子だ」とだれからも、ほめられていました。この兄が、畑仕事を終えて家に帰って来ると、何やら、楽し気な、お祭りのような、賑やかな音が聞こえてきたのです。 いったい何が始まったのかと、しもべを呼んで尋ねるわけです。『弟さんが無事にお帰りになったので、お父さんが、祝宴を開いて、みんなで喜んでいるのです。』
これを聞いた兄の心に非常な怒りが湧き上がってきました。 28-30節
すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
今まで我慢していた思いが、ここにきて噴き出して来た感じです。恐らく弟は、財産をもらって家を出て行く前から、真面目な兄に対して、自分勝手で、あまり仕事も真面目にやらない、親のすねをかじって、自由気ままに過ごしていたのでしょう。
ですから、以前からそんな弟を、甘やかしている父に対しても、不満を持っていたのでしょう。 ・・・でも、客観的に見れば、兄の思い、言い分はもっともだという面はありますよね。共感できなくもありません。
あんな自分勝手で、満足に働きもしない奴に、大切な財産を分けてやって、それを持って出て行き、放蕩三昧をして、落ちぶれて帰って来た弟を、叱りもせず、償いもさせず、大喜びで迎えてやり、家じゅうで喜びの宴会を開いてやる。親父は、いったい何を考えてんだ! あり得ないだろう! 一緒に喜べるわけないだろう! 怒り心頭、と言ってもいい状態でしょう。わかりますよね!
事ここに至っては、もう我慢の限界を超えてしまいました。父親に不満を、怒りを、ぶつけるのです。 「私は何年もの間、一言の文句も言わずに、お父さんの言う通りにしてきました。友だちと楽しむために、子山羊一匹、もらったことはありません。それなのに、放蕩三昧の果てに、落ちぶれて帰って来たあいつのために、こんなに盛大な祝宴を催して、喜んでやるんですか!」
ここから浮かび上がってくるのは、弟に対する「ねたみ」です。「やりたい放題のことをして、それでいて帰ってくれば、父親はあんなに手放しで喜んでいる。自分はそんな扱いなんかされたことはない」という思いです。
人は、だれでも「ねたむ思い」というものを心の底に持っていると思います。そして、ねたみには、同時に、自己義認という、自分の正しさを主張する、そういう自己主張が伴うのです。
「自分はこんなにやっているのに、同じ息子なのに、あいつばっかりかわいがられている」 そういう思いを強く主張するのです。ねたみには自己義認、自分を主張する、自分の正しさを言い張る心が伴うものなのです。さらに「自己憐憫」でもあります。 「それなのに、私はこんな扱いしかうけていない。かわそうな私よ。弟ばっかりかわいがって、私はこんなによくやっているのに、かわいがってくれない。私はなんと哀れな者なのだろう。ひどいじゃないか」と自分に言い聞かせるのです。
この兄息子の訴えを見ると、息子としていつも父親と一緒にいることが、喜びとなっていない、そのことがわかります。父親に対する愛が感じられないのです!
私たちはどうでしょうか? 神さまがいつも一緒にいてくださることを喜んでいるでしょうか? 私たちがどんなときにあっても、どんな状況に中に置かれていても、神さまはそこに、一緒にいてくださることを忘れていないでしょうか? 詩篇46:1にこうあります
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
さらに詩篇46:7も11もこう記すのです!
万軍の主はわれらとともにおられる。
なんと力強い、確信に満ちた、信仰の宣言でありましょうか!
ネヘミヤ記8:10はもっと簡潔にこうあります(口語訳聖書)
主を喜ぶことはあなた方の力です。
口に出して信仰告白しましょう。力になります!
兄息子は、父親と同じ屋根の下で、1日たりとも離れたことなく暮らしていました。しかし、体はそこにありながら、心は父親から遠く離れていたのです。
ここが結局、親に対して、弟と同じ放蕩息子だということなのです。
放蕩息子の弟が、父を思い出し「神に対して罪を犯し、またお父さんに対しても罪を犯しました。」と我に返ったその時、体はまだ遠い所にいたけれど、心は親の所に帰っていました。息子の心に帰っていました。
兄息子は、体は親から離れたことはありませんでしたが、心ははるか離れた放蕩息子だったのです。
弟息子の方は、自分でさんざんやりたい放題のことをして来ましたが、ふと、自分が何をしているかということを、思うことはあったでしょう。放蕩三昧に、それこそ金を湯水のように使い、遊女と共に遊びまわっていながら、俺は良いことをしている、俺は正しい良い息子なんだ、なんて思えないでしょう。
けれども、兄息子の方いつでも、ああ今日も働いた、また今日もよく働いた、と自分で満足している。そして、自分はなんて親に対して、この家に対して忠実な者なんだろう、あんな弟みたいな奴とは違うんだ! という思いで暮らしてきたことでしょう。しかもその心は真の、親に対する子の心ではない。まったく息子の心は失われていたのです。
ですから、身はここにあれども、心においては、親からまったく失われた子どもであることには変わりないのです。
この兄息子の言葉に対して、父は弟息子に対する愛と同じ愛をもって、受け入れていくのです。31-32節
父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
「おまえはいつも私といっしょにいる」「お前はいつだって、私のそばにいたじゃないか」 父親が、神さまが、いつも一緒にいてくださるのです!
これにまさる喜び、祝福はありません! ローマ8:31
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
また、父が「私のものは、全部おまえのものだ。」と語っていますが、さらにローマ8:32でこれを明確に約束しておられます。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
このように愛と恵みに満ち、祝福を与えてくださる父なる神さま、十字架に架かって私たちの罪すべてを赦してくださった御子イエスさま、いつも私たちと共にいて、慰め、励まし、助け、力を与え、導いてくださる聖霊様を、心から喜び、感謝して、今週も歩んで行きましょう。
