十字架による和解の福音
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026、7、12 コロサイ人への手紙1章18-23節
今日の箇所では、イエスさまによって与えられる、イエスさまが下さる平和について記されています。今日は、聖書が語る平和について考えていきたいと思います。
まずは1:20から
その十字架の血によって平和をつくり、・・・ただ御子によって和解させてくださったのです。
「和解させてくださった」とあるからには、それ以前は反目、敵対関係にあったと言うことです。
日本は80年以上平和な時代が続いています。確かに私たちは平和の中に過ごしていますが、本当に今は平和な時代なのでしょうか? 少し深く考えてみると、人間関係がいつも平和でしょうか? 親子関係、夫婦の関係、周りの人との関係、そういう人と人との関係が、常に平和とは言えない、そういう時代ではないでしょうか。
聖書の中では「平和」「平安」と言う言葉はとても大切な言葉です。 イスラエルでは、「シャローム」と言う言葉が、朝も昼も夜も、あいさつとして使われています。これは「平安があるように」と言う意味なのです。 そして、このシャロームと言う言葉の背後にあるのは、この世界を支配しているのは神なのだ、と言う考えなのです。
この神との関係が平和であることが最も大切な平和、平安であり、「神との関係の中で与えられる平和」なのです。
そういう面からみると、日本が平和であるという今の状態は、表面的な非常に不安定な平和と言うことができます。 神様に背中を向け、神様に与えられている平和というものを全く考えない。神に背中を向けているために、人々は平和な時代に、不安で仕方ないのです! 1:21
あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのです
神から離れている。神に背を向けている、神を無視している、それが罪の姿なのです!
具体的な個々の罪よりも、もっと根本的な罪は、神から離れていること、それが原因となって、悪い行いの中にいるようになるのです。
「あなたがたも、かつては」そういう者だった。罪の中に生き、神に背を向け、神に敵対して生きる者だった。
神は、恵み深く、あわれみに富むお方! しかし、同時に、罪に対しては恐ろしいほどの怒りを現わし、罰せずにはおかない神でもあるのです。
誰かに悪いことをしたら。その人との関係が当然悪くなります。いつまでもこんな関係が続くのは嫌だな、と思ったら、心から謝ることが大切です。そうすれば関係改善につながっていきます。償わなければならないことがあったら、きちんと責任をもって償うことも必要です。
しかし、私たちは自分で自分の罪を償うことはできないのです!
誰かからお金を借りたら、返すまで負債が残ります。いくら、ごめんなさい、返せないのです、と言っても返すまで赦してくれません。支払うまで、いつまでも借金取りは追いかけて来て、返せない人は、いつも、びくびくしていなければならないのです。
しかし、驚くべきことに、債権者である神様の側から、私たちに向かって「私はあなたを赦したい、和解したいのです。あなたと仲直りをしたいのです。あなたとの関係がこんなにこじれていることを、私は耐えられないのです。」と申し出てくださっているのです。
しかし、「私はあなたの犯した罪を見逃すわけにはいかない、だから、私の側でそれを何とかしましょう」と言って、神さまの方から、和解の申し出をしてくださり、和解のための準備をしてくださったのです!
それがイエスキリストの十字架です。 1:22
今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
突然ですが、日本の裁判制度では死刑があります。日本での死刑は絞首刑です。死刑囚が苦しまないように、一瞬で死ぬように工夫しているのです。それは死刑囚に対する最後の憐れみなのです。
けれども、イエスさまの十字架は、それとはまったく逆なのです。イエスさまの十字架は、できるだけ苦しむように、それも長く苦しむように、できるだけ恥ずかしい姿をさらすように、もう最高に苦しく、恥ずかしくするように考えた死刑なのです!
イエスさまは午前9時に十字架に架けられ、6時間後の午後3時に息を引き取るのです。普通は、十字架刑で6時間で死ぬわけはないのです。2日も、3日も、あるいはもっと長く十字架上で苦しむのです。しかし、二人の強盗を含む3人が十字架に架けられたのは、週の終わりの金曜日。翌日は安息日。木に架けられた、呪われた者をいつまでもそのままにしておくことはできないので、早く殺してしまおうとして、むこうずねを折るのです。すると、体重を支えられなくなって、体が下に引っ張られて息ができなくなるのです。
ところがローマ兵がイエスさまの所に来ると、もう息をしていない、そこで、すねは折られませんでした。そして、本当に死んでいるかとどめを刺す意味で、槍でわき腹を突き刺したところ、血と水が流れ出てきました。もうその以前に心臓が破裂して、完全に死んでいたのです。
イエスさまは息を引き取る直前に「すべては終わった」「完了した」と言われました。 「完了した」のは、和解のための準備、神の怒りをなだめる、一切の必要ななだめの供え物は、ご自分の血を注ぎ出して、命を捨てることによって、すべての条件が満たされた! ということなのです。
私たちにとってなすべき必要な2つのことがあります。イエスさまが伝道生涯の初めに「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改め」と「福音を信じること」これが、私たちがなすべきことなのです。
「悔改め」、これは簡単に言えば「ごめんなさい」「本当に神さま、あなたに背を向けて、今まで歩いてきました。ごめんなさい!」ということ。
「福音を信じる」とは、「ありがとうございます」と言って、イエスさまを救い主として心にお迎えすること。
このように、子どものような心になって、十字架を仰ぐことです。
十字架を仰ぎ見るとき、もう自分を責めることはあり得ない! それでは十字架を仰ぎ見ることにはならないのです。もう和解は成立しているのですから! 同時に他の人を責めることもできない! イエスさまは私のためだけでなく、ほかの人のためにも十字架に架かってくださったのですから。
恥ずかしい証しになりますが、かつて信徒の方にある相談をされたとき、私の誤解によって、相談ではなく、報告と受け取ってしまったのです。「そんな大事なことを自分で決めてしまった後で、報告したのか!」と思って、その後、私はその人に対する苦い思いをある期間、持ち続けてしまったのです。 しばらくたってから、それは私の誤解だったことが分かり、心から謝罪して、その方も受け入れてくださり、和解することができたのです。
もう一度22節を
しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として
御前に立たせてくださるためでした。
イエスさまが私たちのために十字架に架かってくださったのは、あなたや私と神さまとの間に平和を作り出すため、というすばらしい目的がありました。 しかし、それだけではなく、そのことによって、神との和解が与えられた私たちが、神の前に、聖く、傷なく、非難されるところのない者として 立つことができるようにしてくださるため、とあります。
聖いということは、神の働きのために分けられたということ。神のために生きる、献身の歩みをしていくこと。
傷のない者とは、心と行為において偽りがない者。
日々の歩みの中で、非難されるところのない者として、神の御前に立たせてくださるために十字架に架かってくださったと語るのです。
イエスさまはこのような思い、願いをもって、十字架に架かってくださったということを、私たちは心に刻んでおきたいと思います!