top of page

暗やみを照らすまことの光

2025,8,24 ルカの福音書11章33-36節

 

 

 18日(月)から20日(水)まで、奥多摩バイブルシャレーというキャンプ場で、今年の「ファミリーキャンプ」を行いました。キャンプのテーマは「喜びをもって主に仕えよう」ということで、キャンプ全体を通して「主に仕える」ことをより深く考え、実践していけるように進めていきました。神さまの大きな恵みを頂いて帰ってくることができました。 みなさんのお祈りを感謝します。

 

 では、今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。ルカの福音書11章33節から

 

 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入ってくる人々に、その光が見えるためです。

 

この言葉とまったくと言っていい、同じ言葉をルカの福音書8章の4つの種のたとえ話の直後に、イエスさまが語っています。ルカの福音書8:16

 

 あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。

 

 内容的には、昔も今も、誰もが当然のこととして、納得できる内容です。 あかり、当時はランプ、今は電気、生活する上では、なくてはならないものなわけです。そして、34節に続きます。

 

 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります

 

ここから、実際のあかりではなく、からだのあかりへと話を進めていきます。現実的には、いくらあかりが灯っていても、光があっても、目を閉じていたら、何も見えません。盲目の方は、肉眼で物を見ることはできません。盲目でなくても、何か目に病のある人は、物をハッキリと見ることはできません。 

 私も、物が二重に見えて、車の運転にも支障を来すのではないかと思って、眼科に行きましたら、手術設備のある眼科を紹介されて、そちらに行きました。診断結果は、「網膜前膜」という聞いたことのない病名で、すぐに手術ということになりました。ちょうど2年前の8月の末でした。 

 この手術が痛いの痛くないのって・・・、痛かったのです! 左目だったのですが、右目も軽度の白内障なので、毎日目薬をさしている状態なのです。  

 目がよく見えないというのは、本当に、このみ言葉のように、からだも、気持ちも暗く、重くなったりしますね。 この34節の後半を、新共同訳聖書はこう訳しました。

 

 目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が濁っていれば、体も暗い

 

「目が澄んでいれば・・・、目が濁っていれば・・・」と表現しました。 これは、肉眼にも言えることですが、イエスさまは、非常にわかりやすく、心の目、霊的な目のことを、語っているのです。日本にも「目は口ほどにものを言い」などという言葉がありますが、まさにこの34節の言葉に通じるものがある思います。

「目が健全なら」とあるように、物がはっきりと、よく見えて、車の運転も安全にできます。標識や信号を見落とさずに、交通ルールを守って、正しい判断をして運転していれば、安全に目的地に着くことができます。 また、夜、ライトをつけずに運転をする人はいないでしょう。道路に何があるかわかりません。特に、人が歩いているのがわからなかったら、人身事故につながる恐れがあります。車のライトに限らず、私たちが生活する上で、あかり、光はなくてはならないものです。普段当たり前だと思っているものが、実は最も大切なものであるということを理解することは、私たちの人生にとって、重要な考え方だと思います。

 だから、といってもいいと思いますが、神さまが天地創造をされたとき、まず初めに何を造られたでしょうか? 創世記1:1-3

 

 初めに、神が天と地を創造した。 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。

 

神さまは、まず最初に光を造られたのです! その後、様々なものをお造りになりました。

 

今日の箇所に戻ります。ここで、というよりも、聖書全体を通して、光はイエスさまを指しています。ヨハネの福音書8:12

 

  イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

「わたしは、世の光です」とイエスさまご自身が明確におっしゃっているのです!

「わたしに従う者は」=「わたしを信じる者は」、なのです!

「決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

手探りで、どういう風に歩んでいったらいいのか、どんな判断をすればいいのか、何が本当に正しいことなのか・・・。暗やみの中で、迷いながら、苦しみながら歩む必要はなくなるのです!

 いのちの光であるイエスさまが、行くべき道を示し、その道をご自身の光によって、明るく照らしてくださるのです。 さらに、ヨハネの福音書1:5 

 

  光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

そして、ヨハネの福音書1:9を現代訳聖書は

 

 すべての人を照らすそのまことの光であるキリストが、この世界に来られた。

 

「まことの光であるキリスト」とハッキリ記すのです。イエスさまは完全な光、光そのもの、光自体なのです。光がなければ、暗やみです。 光を受け入れなければ、いのちの光を拒んでいるなら、信じないなら、いつまでたっても、自己中心の罪から、罪の暗やみから、抜け出すことはできないのです。 

 

35節を見ます。

 

 だから、あなたがたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。

 

「あなたがたのうちの光」これは、何度も見てきたように、キリストご自身! 聖霊なるお方、とも言えます。キリストを信じたときに、私たちのうちに聖霊が住んでくださり、宿っていてくださるのです。 これは感情の問題ではなく、事実なのです! 

ただ、この光なる聖霊が、暗やみにならないように、とありますが、聖霊が暗やみに代わる、ということではありません。聖霊に自己中心という罪の覆いをかぶせてしまって、光が輝けないようにすることが、ないように、気をつけなさい、というのです。

 最後に36節を見て終わりにします。

 

 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように、明るく輝きます。

 

ここで「あなた」と言われているのは、文字通り、あなたです! 私たち一人一人を指しているのです。 光であるイエスさまを受け入れた者は、その光を周りの人たちに輝かすことができる、そうする使命が与えられている、というのです。 マタイの福音書5:15-16でも、こう語っています。

 

  また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

  このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 

私たちにいのちの光が与えられたのは、世の光として、周りの人たちにその光を輝かすためなのです。 自分がその光の中で、満足しているだけであってはならないのです。

私たちに与えられている、使命を深く自覚する必要があるのではないでしょうか?

 

 光を輝かすとは、愛のわざをすることです。愛のわざは、犠牲が伴うのです! 耳障りの良い「愛をもって○○を」という言葉だけではできないのです。

 私たちを救うために、天の王座を捨てて、この地上においでくださり、最後は、十字架で命まで捨てるほどに、私たちを愛してくださった神の愛が、どんなに大きなものであるかがわかったら、周りの人たちに愛の業をすることができるのではないでしょうか!

                                                     

 

 
 

最新記事

すべて表示
公義と神への愛こそ

2025,9,7 ルカの福音書11章42-44節      先週は、イエスさまを食事に招いたパリサイ人に対して、外側はきよめるが、内側は貪欲と悪い思いとでいっぱいではないか、持っている物を施すこと、与えることによって、聖い者となりなさい、と痛烈に批判した箇所を見ました。...

 
 
外側ではなく内側を

2025,8,31 ルカの福音書11章37-41節    今日の中心的な内容は、説教題そのもの。「内側と外側」についてです。37節から    イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれ...

 
 
十字架こそがしるし

2025,8,17 ルカの福音書11章29-32節      今日の聖書箇所は、イエスさまが「しるし」を求める人たちに対して語った内容です。29節から見ていきましょう。    さて、群集の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めている...

 
 

ジョイチャペル

©2023 by JOYCHAPEL. created with Wix.com.

bottom of page