2025,2,9 ルカの福音書9章23-27節
(1)自分を捨てて
前回のペテロの信仰告白を受けて、それに続く内容が今日の所です。ルカ9章23節
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
イエス・キリストと常に、いつまでも、豊かな交わりを持ち続けたいと思うなら、私について来なさい、と言われるのです。 そのためには、2つの事が言われています。第一は「自分を捨てる」、2番目は「日々自分の十字架を負う」、そして、「私について来なさい、従ってきなさい」と語っておられるのです。
第一番目の「自分を捨てる」について。この言葉だけを言われるとエッ? どういうことですか? となりますよね。 でもこれはイエスさまは「自分を捨てることができなければ、これが分からなければ、私について来ることはできないよ」と言われているのだと思います。
捨てなければならない自分とは、どういう自分なのでしょうか? それは罪人としての自分、自己中心の自分、わがままな自分のことです。
私たちには絶えず、自分を捨てるということが問われていると思います。自己実現に対して神実現という表現があります。 もう何年も前から、成功するためのビジネス本、あるいは人生に成功する秘訣を謳った書物が数えきれないほど出版されてきました。それらの大部分は自己実現のためのものです。自分の野望、自分の夢をどうしたら叶えることができるのか、という書物です。
私たちは自己実現のために生きているのではありません。私たちは、私たち一人一人に対して計画を持っておられる神実現のために生きている、という事を知らなければならないと思うのです。
イエスさまは、ゲツセマネの園での祈りで「お父様、十字架に架かって苦しむのはイヤです。私は血を流すのはイヤです。ムチ打たれることも、裸になることもイヤです。いやなものはイヤです」とイエスさまらしくない、まさに人間イエスの祈りをなさったのです。苦い杯なんか飲みたくありません。でも、それが結論ではありませんでした。「私の自己実現は、いやなものはイヤですが、神実現、あなたのみこころとして、ご計画しておられるのでしたら、私はその苦い杯を飲みます」と十字架に向かって行かれたのです。だからこそ、救いの道が開かれたのです。
さらに、こう続けます。25節
人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
この「自分自身」をリビングバイブルでは「本当の自分」と訳しています。本当の自分とは、どういう存在なのか? 神さまがあなたに対して持っておられる素晴らしい計画に生きる自分、ではないでしょうか。
この聖書の言葉によって、人生が大きく変わった人物の一人が、フランシスコ・ザビエルです。日本に初めてキリスト教を伝えた人です。彼は、フランスの名門パリ大学の寮で同室になったイグナチオ・ロヨラから、毎日のようにこの聖書の言葉を投げかけられて、カトリック教会改革のために一緒に神様のために働こう、と迫られていたのです。やがて、ロヨラ、ザビエルを中心とする7名の者でイエズス会が設立されたのです。この組織は非常に厳しい規律をもって、自分たちを神にささげ、霊的な訓練を徹底して行いました。そして、訓練後、ザビエルはインドへ、そして日本に導かれたのです。彼の献身的な伝道により2年間で、多くの人がキリストを信じました。その後、いったんインドに戻り、日本伝道のために、日本に影響を与えた中国に伝道しようと準備していた時に、病に倒れ、46歳で召されたのです。 彼は、まさに自分を捨て、自分の十字架を負い、主に従い通した生涯を送りました。神の愛の豊かさを知っていたから!
彼の人生は、このキリストの言葉に生きた人生でした。
間違えないで頂きたいのは、誰もがザビエルと同じ様にしなければならない、と言う訳でもないし、ザビエルみたいな人は特別だから、とも思わないで欲しいのです。
神さまは、私たちひとり一人のことをよくご存じですから、それぞれに相応しい歩みを用意してくださっているのです。
しかし、忘れてはならないのは、「犠牲を伴わない愛はない、神と人に仕えるということは、ある面犠牲を払う事だ」という事です。 自分は安全な所に身を置いて、犠牲も払わず、痛みも感じずに、神と人に仕える、ということができるのでしょうか?
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てること」その意味をよく考えていきたいと思います。
(2)日々自分の十字架を負って
第二は、「日々自分の十字架を背負う」です。「日々」という言葉に注目すべきでしょう。時々ではなく、毎日、自分の十字架を負っていくのですよ、ということです。
「毎日、十字架を背負って生きる」 よく考えると、非常に重い言葉ですね。十字架とは、本来死を意味します。しかし、ここで言われていることは、まず、第一のところでお語りした、「自分を捨てる」 自分中心から神中心に、自己実現から神実現という思いで生きる、という事です。
また、十字架はうれしい、楽しいものではありません。できれば避けたいものでしょう。でもあえて言うと、苦しみ、ののしり、恥をも甘んじて受ける、ということが十字架を背負って生きるという意味なのです。
私たちの毎日は、ある面、様々な十字架を背負って生きていると思います。経済的な十字架、病という十字架、子育ての苦労の十字架、いじめの十字架、様々な人間関係の十字架、まさに毎日が十字架でしょう。 けれども、イエスさまが言われたのは、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」というメッセージです。 自分の十字架です! ひとの十字架ではありません。自分の です。 自分の人生の中で、これは私が背負っていくべき十字架であると自覚なさった人は、力が与えられます。 あなたは自分の十字架を自覚しておられますか? これは私の十字架なんだ、という自覚です。 十字架がなければ復活はないのです!
この「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」というメッセージには、2つの解釈があります。1つは、「忍耐するんですよ、神さまが力をくださいますから」というもの。 しかし、今日お伝えしたいのは、自分が負わなければならない、その十字架を通してでなければ得られない、神の恵みがあるのだという事なのです。
十字架というと、何か悲壮感が漂いますが、そうではない、この十字架を通して、私たちはすごい世界を見、経験させられるのです。
星野富弘さんを知らない人はいないと思います。彼に、「あなたはスポーツマン、若々しい体育の教師であった時代に戻りたいですか?」と質問した人がいました。彼の答えは「いいえ。今のままで結構です」。 彼は毎日、体を自由に動かせない、という十字架を背負って生きているのですが、口にくわえて描く絵と詩によって、沢山の人々に、励まし、慰め、力を与えてきました。健康な時とは比べものにならない恵みを頂いて来たのです。
リビングバイブルでは、この23節を
「いいか、わたしについて来たい人はだれでも、自分のつごうや利益を考えてはいけない。日々自分の十字架を背負い、わたしのすぐあとについて来なさい」
と訳しました。わかりやすいですね。イエスさまのあとについて行ったら、何かいいことがあるんですか? もちろんです。これ以上ない、いいことがあります。永遠の命が与えられ、この地上では、平安と喜びに満たされた人生を歩んで行くことができます。
聖霊なる神の助けを頂きながら、感謝と喜びをもってイエスさまのあとに従って行きましょう。