新しいぶどう酒は新しい皮袋へ
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 2024年6月23日
- 読了時間: 5分
2024.6.23 ルカの福音書5章33-39節
(1) 繰り返されるイエスへの批判
新約聖書、特に福音書の中にはパリサイ人、律法学者がよく出てきます。その殆どは、イエス・キリスト、またその弟子たちに対する批判、否定する態度をもって現れます。今日も33節で「彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』」 旧約聖書の律法の中には断食の規定があるのに、なぜあなたは弟子たちに断食をさせないのか、と責めるのです。
パリサイ派の人たちも、最初は律法に従っての断食をしていました。しかし、後になると、断食をすることによって、自分たちの宗教的敬虔さを表明しようと考えたのです。そして、週に2度断食をして、その事を人々に見せびらかせるようになっていったのです。 あなたも宗教指導者であるなら、どうして、弟子たちに断食をさせないのですか、と言っているのです。 イエスさまは断食を否定しているわけではありません。ご自身も、公の生活に入られた時、長い間断食をしておられますし、断食について教えてもおられます。 パリサイ人や律法学者は「断食」を取り上げて、なぜ、あなたがたは、律法を、そして律法に関連する言い伝えを守らないのか!と責めている訳なのです!
そこでイエスさまは34-35節で「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」と言われました。 ここでの花婿とは、イエスさまはご自身のことです。救い主が来られたのだから、喜びにあふれるのは当然でしょう、と言うのです。取税人レビが救われた時、パリサイ人たちはこう考えました。 彼が本当に自分の罪を悔い改めたのなら、飲んだり食べたりするべきではなく、むしろ、断食をして自分の罪を悲しむべきだ、どうなのだとイエスさまに問いただしたのです。 しかし、イエスさまのお考えは彼らとは全く違っていました。 喜びにあふれてよいし、それが当たり前なのだと言われたのです。しかし、花婿であるイエスさまが取り去られる日が来るーそれは、イエスさまが十字架上で死なれる日のことですがーその時には、悲しみを表す断食をしてもよいと言われたのです。
このパリサイ人や律法学者の考え方は、これまでの日本人クリスチャンに強く教えられてきた事だと思うのです。日本の教会は長い間、信仰生活を喜びの生活とは捉えないで、むしろ自分の罪を深刻に見つめて悲しまなければならない、と教えて来たのです。しかし聖書はそうは教えておりません。イエスさまご自身もここではっきりと、悲しみではなく、喜びであると教えておられます。使徒パウロもその書簡の中で、繰り返し、いつも喜んでいなさいと教えています。
(2) 古い律法と新しい福音
次にイエスさまは、たとえをもって、真の信仰とは、本当の信仰生活とはどういうものなのかを語っておられます。36-38節「イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。『だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は 流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。』」 語られていることは「そうだ、その通りだ」と理解でき、納得できる内容です。 このたとえでイエスさまは、何を教えておられるのでしょうか? 古い着物、古い皮袋は、旧約聖書の律法を守り、行うことが、神さまに喜ばれる信仰、信仰生活を表しており、新しい着物、新しいぶどう酒は、イエス・キリストの十字架の救いを信じるだけで救われ、神の子とされる信仰、その信仰生活を表しているのです! そして古い、律法を守り行うことを最も大切なこととしてきた信仰生活と、新しい、真の福音を信じるだけで良しとする信仰生活は両立するものではない、ということを語っているのです! イエスさまが来てくださり、十字架ですべての人の罪を背負って、私たちの身代わりとして、神の罰を受けてくださった、それを信じるだけでいいんだ、神さまはそれで私たちを正しい者、義と認めてくださるのです。行いによらず信仰によって救われる、「信仰義認」という考え方なのです。 「律法でなく福音」、「裁きではなく赦し」、「罪を悲しむだけでなく、赦された喜びに生きる」 これが私たちに与えられた恵みの信仰なのです! コリント人への第二の手紙5章17節にあるように「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
私たちは、イエスさまによって全く新しくされた者なのです!
(3)喜びにあふれる群れ
今日の最後の箇所でイエスさまは次のように語っておられます。39節「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」これもその通りで、ぶどう酒は古いものほど、まろやかで口当たりが良い、と言われています。イエスさまがここでおっしゃっているのは「古い律法の世界に生きて来て、そのしきたりになじんだ人は、私が説いている神の国の福音には、容易に耳を傾けようとしない」ということなのです。
これはある面私たちへの警告でもあります。 私たちは聖書信仰に生きていると思っています。しかし、私たちは本当に、日々新たに、聖書の言葉によって歩んでいるでしょうか? 養いを受けているでしょうか? 聖書の話はよく知っている、礼拝にも結構出席しているし、信仰生活もまあまあそれなりにやっているし、いいんじゃないの。 そう思っているのであれば、まさに古いほうが良いと言っている、パリサイ人・律法学者と同じではないでしょうか?
みなさん、このジョイチャペルは「新しい皮袋の教会」です。スタート時から神さまがそういうふうに導いてきてくださいました。クリスチャンになったのだから、こうしなくてはならない、こんなことはしてはならない、ではなくて、イエスさまを信じて、 ナント!罪が全て赦されたことを、日々、心から喜んで、感謝している人たちの群れ、それがジョイチャペルです。
ものすごい贈り物をもらったら、機会を見てお礼をするでしょう。ひとり一人が相応しい形で、神さまに喜んで仕えていきましょう。