2025,3,23 ルカの福音書9章49-56節
(1)神の愛は寛容
先週は、だれが一番偉いのか、という説教題でお語りしました。イエスさまは、小さい子どもをそばに立たせて、このような最も小さい者、謙遜な心で、自分を低くする者、人に仕える者が、天の御国では一番偉いのです、とお語りになりました。
今日の聖書箇所は、その流れの中で弟子が語ったことに対して、イエスさまがお教えになったことです。49節から見ていきましょう。
ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」
ヨハネは、自分たち、イエスさまに従っている者はいいが、それ以外の者が、勝手にイエスさまの名を唱えて、神の御業を行うなんてとんでもない、という思いで、イエスさまに報告したのでしょう。それに対して イエスさまは50節で
「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」
と語られたのです。 ヨハネには、いえ、弟子たち全員には、自分たちこそがイエスさまのまことの弟子なのだ、という自負、プライドがあったのだと思います。彼らがイエスさまに召された時のことをルカ5章:10-11節にはこうあります
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った、
弟子たちは「何もかも捨てて、イエスに従った」のです。かなりの覚悟をもってイエスさまに従って来たのです。 それなのに、イエスさまと共に働いてもいない者たちが、イエスさまの御名の権威だけを使って、悪霊の追い出しなどをしているなんて許し難い。 そんな思いだったのでしょう。
しかし、それに対してイエスさまは
「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」
と言われたのです。イエスさまの御名によって不思議な業をするのであれば、まず、ひとこと断ってからするのが常識でしょう。という、常識的な基準をもって、ヨハネはやめさせたのでしょう。
私たちはどうしても、常識的な基準で、人を量ってしまいがちではないでしょうか?
私自身もそんな考えを持っているなと思わされました。 昨年から教会に来始めた子どもたちが何人もいますが、彼らは時間をきちんと守るという意識があまりないのです。子どもの集会が終わってから、まさにくつろぎにだけ来ている、という感じなのです。毎週のように、そういう姿を見ていると「ちゃんとしろよ! 何しに教会に来ているんだ!」と言いたくなってしまうのです。
けれども、イエスさまの心は違うのです! 「ちゃんとできなくても、いや、できない子どもたちをあえて送っているのだよ」と言っておられるのだと思うのです。第一コリント13章の愛の章で、愛の定義が示されますが、まず最初は「愛は寛容であり」なのです。
私たちが接する人たち、周りの人たちの中には、「この人はちょっと・・・」と言って否定的に見てしまう人がいるかも知れません。けれども、祈りながら、神さまの愛を頂いて、寛容な心で接していけば、神さまが不思議なように良い関係へと導いてくださるのではないでしょうか。
(2)意を決して使命に生きる
後半を見ていきましょう 51-52節
さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。
「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」とありますが、リビングバイブルでは「鉄のように強固な意志を内に秘め」と訳しています。エルサレムに行き、十字架に架かるためにこそ、私は来たのだ!さあ、エルサレムに向かって進んで行くぞ!との決意が表れている姿なのです!
これを成し遂げなければ、これまで行ってきた、病のいやし、悪霊の追い出し、死人を生き返らせたこと、5千人を満腹にさせたことなどは、すべてただこの世での驚くべきわざで終わってしまう。
人々を、この世での喜び、平安、いやしといった、この世での幸いのみを与える神になってしまう。 そうではないのだ! まさに、「意を決して」十字架へ向かうという、緊張感が伝わって来る場面!
私たちは、福音書を何度も読んだり、説教を聞いているので、イエスさまは神のひとり子であるにも拘らず、十字架に架かって、私たち罪人を救うために、この地上に来てくださった、ということを十分に理解しています。しかし、頭で理解しているだけでは、イエスさまが経験なさった具体的な現実はわかりません。 ともすると、イエスさまの十字架への道は、当然の流れで、既定路線であって、レールの上を進んで行くようなものと、つい思いがちです。しかし、そうではないのです。 イエスさまは神の子ですが、人間となられたお方なのです! 人としての感情をお持ちの方! ご自分の使命は十分わかっていても、十字架に釘づけにされ、みじめな姿がさらされて、ののしられ、バカにされ、辱められ、苦しみと痛みと渇きの中で死んでいくことを想像したら、自ら進んでそこに行くことは、一瞬であっても躊躇するのではないでしょうか?
しかし、そんな思いを振り切るように、「意を決して」イエスさまは御顔をエルサレムに真直ぐ向けられたのです。
私たちは、どこに顔を向けているでしょうか? 私たちのために、十字架に架かってくださったイエスさまに、真直ぐに顔を向けて、歩んで行きたいものですね!
(3)拒む者にも注がれる神の愛
52-53節を見ます、
彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
新共同訳では「歓迎しなかった」とあります。 詳しいことは省きますが、歴史的な背景として、ユダヤ人とサマリヤ人は元は同じ民族だったのですが、分裂し反目し合って来たのです。ですから、普段ユダヤ人がガリラヤ地方からエルサレムに行く時は、サマリヤを通れば3日で行けるところ、特別急ぐ用事がなければ、サマリヤを避けて、遠回りをしてエルサレムに入ったのです。
サマリヤ人がイエスさまを受け入れなかったのは、そのような歴史的背景があるのです。しかし、それだけではなく、53には「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とあります。どういうことなのでしょう? おそらく、サマリヤ人もイエスさまの噂は聞いていたでしょう。その人物が、サマリヤ人が嫌っているユダヤの地へ、それも中心都市であるエルサレムに行くのだと知って、そんな連中の世話などできるもんかと、拒否したのだと考えられます。
救い主がやって来たのに、それを拒む愚かさ! 多くの日本人も同じように見えます。
それに対して、私たちはどうすればいいのでしょうか? 神さまの愛を示すしかないのです! まず、神さまから愛を注いで頂いて、仕える心と姿勢をもって、頂いた愛を身近の人に、そして、周りの方に注いでいくことしかないのです。
歓迎しないサマリヤ人に対して、54-55節
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。
弟子たちは、旧約の預言者エリヤを思い浮べて、神さまに従わない者は、同じような目に遭わせてやりましょう、という思いだったのでしょう。雷の子と呼ばれた者らしい言葉ですね。
でもイエスさまは、従わない者は滅ぼす、といった裁きが強調されている旧約の神ではなく、愛と赦しの神として、ご自分を拒む者、敵対する者、罪人たちを赦すため、ご自身が身代わりとなって、十字架に架かるために来てくださったのです。 ローマ5章8と10節にはっきりと示されています。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
この、はかり知ることのできない神の愛によって救われ、永遠に死ぬべき者から、永遠の命を与えられた者として、感謝と喜びを持って、主に仕え、隣人に仕えて歩んで行きましょう!