成熟をめざして
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026.4.26 へブル人への手紙5章11-14節
新年度になってひと月になろうとしています。新入学のピカピカの1年生もやっと学校に慣れてきた頃でしょうか。親の心配をよそに元気に登校する子。反対にいつまでも親から離れられない子。親はどんな子であっても、子の成長を願うものでしょう。
同じように、神様も、神の子どもたちの成長を願っておられるのです。
今日の聖書箇所は、神の子どもとして、どういう歩みをしたら成長していけるのかを考えさせられる内容です。
へブル人への手紙5章11節から見ていきましょう。
この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
「この方」キリストについてたくさんのことを話したいが、「あなたがたの耳が鈍くなっている」霊の耳がよく聞こえなくなっているので、難しいというのです。「鈍くなっている」の元々の意味は、「怠けている」なので、聞こうとしていないのです。
熱心にキリストの姿に変えられることを願っていない。主の御心にかなった歩みをしたい、と願って御言葉を聞いていない、ということです。
イエス様は、御言葉を聞くときの姿勢について、よく話されました。4つの種のたとえ話で、ルカ8章15節にこうあります。
「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」
正しい、良い心で御言葉を聞きます。それだけでなく、しっかりと守ります。いろいろな困難もあるけれど、しっかりと耐えます。その結果として、実を結ばせるのです。
また、イエス様は、二つの家のたとえも語られました。マタイ7:24、26
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人」
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人」
とあります。「イエスさまの言葉を聞いて行う者は」とあります。
これは、イエスさまの言葉を、自分の心のうちで咀嚼し、そして実際の生活の中で、具体的に生かしていくことです。つまり、日々の主との交わり、御言葉を通した交わりが必要だということです。
12節
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
なぜ、ある程度の年数が経っているのに、人に教えられないのか? それは、必ずしも聖書知識が足りないから、ということではないのです。御言葉がその人の内に実を実らせていないので、人に教えられないのです。
だから、ここにあるように「神のことばの初歩」をもう一度聞かなくてはならないと言うのです。
クリスチャンが、はっきりと他者に対して「イエスが私の主です」と言えているでしょうか? 「イエスさまは私の救い主です。」と言えているでしょうか?
聖書には、神のみことばを乳飲み子のようにして吸収する必要があると語られています。ペテロはこう言いました。第一ペテロ2:2
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
赤ちゃんが母親や周りの人たちのお世話を受けるように、新しくクリチャンになったばかりの人は、礼拝メッセージやいろいろな人たちとの交わりや共に主に仕えていくことを通して、クリスチャンとしての歩みを学び、成長していくのです。
けれども、20年経ってもクリスチャンとして成長していなかったら、本人自身も、教会も残念に思うし、神様も悲しまれることでしょう。
パウロは、コリントのクリスチャンに対して、こう語りました。第一コリント3:1-2
「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」
霊的成長がどこかで止まってしまったようなクリスチャンです。 教会の中で、人々が養われ、そして神のみことばを、救いの恵みを語れるクリスチャンとなっていくことが必要です。
「キリストの十字架にはどのような意味があるのですか」と誰かに聞かれたら、適切に答えることができるでしょうか? 「神の恵みとは何ですか?」と聞かれたら、どうでしょう? 私たちクリスチャンにとって、聖書の言葉を聞く、そして学ぶことは、欠かすことのできない大切なことであり、身につけるべきことなのです。
けれども、13節を見ると
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
幼子の特徴は、人の話を聞くことより、とにかく自分の話を聞いて欲しいのです。 霊的な幼子も、何よりじっくり神の言葉に耳を傾けるより、自分の思い、考えで行動してしまうのです。
ですから、次のように語るのです。14節
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
神のみことばは「堅い食物」です。聖書を深く学ぶということは、自ら考えて、瞑想して、祈り深くしていく、堅い食物ですから、何度も何度も口のなかで噛みながら、咀嚼しなければなりません。これは面倒な作業ですが、この作業を通して私たちは、霊的栄養を摂ることができるのです。
そして、霊的に養われると、普段の生活の中で、何が良くて、何が悪いのかを識別できる力が身についていき、霊的に大人として生きることができるのです。
スポーツの世界でも、芸能の世界でも、突然素晴らしい力を発揮する、と言うことはまずあり得ません。 練習を、それも基礎的な練習を繰り返し、繰り返し行って、だんだんと上達し、やがて成熟した、見る者、聞く者を感動させる力を身に着けた者になって行くわけです!
クリスチャンは別に、人の注目を浴びるために信仰を持ち、その成長を目指しているわけではありません。「より主を愛し、主に仕え、隣人を愛し、隣人に仕えていくために」、なのです! そのためには、クリスチャンとして基本的な歩みをしていくことが必要であり、大切なのです。 ではクリスチャンの基本的な歩みとは何ですか? それは「日々のみことばと祈り」 これしかありません!
米国のある牧師が、クリスチャンが成長するために必要なのは、成長したいという①願いをもって、②決意し、そのために③努力し、④こだわることだ、と言いました。何にこだわるのですか? もちろん、成長することにこだわる必要があると言うのです。
ピリピ2:13にはこうあります。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
「志を立てさせ」を口語訳では「願いを起こさせ」とあります。成長したいという志、願いを持って、持ち続けて、神と人に喜ばれる歩みをいて行きましょう!