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愛は真理を喜ぶ

更新日:5月12日

2025.5.11コリント人への手紙第一 13章1~8節

 

(1)何を喜ぶのか

 先週、結婚式の司式をいたしました。キリスト教式の結婚式では、必ずと言っていいほど、愛の章と言われている、この第一コリント13章が読まれます。この愛の章を朗読し、進めていく中で、この結婚式全体を通して、神さまの大きな愛と、神さまがどんなに私たちを祝福した歩みへと導いてくださっているのかを、強く思わされました。

 ですので、今日はこの箇所から、ご一緒に、神の愛を受け止め、感謝したいと思います。

13章全体をじっくり読んでいくだけでも、神の愛の素晴らしさが伝わってきますが、今日は、いろいろな「愛は、・・・です。」という中から、6節の

 

「愛は不正を喜ばずに、真理を喜びます」

 

 との聖句のみを取り上げてお語りしたいと思います。 

 このみ言葉は、見方によっては、「では、あなたは何を喜びとして生きていますか?」と問いかけているようにも受け取れます。 

 みなさんは、今、どんなことが喜びとなっているでしょうか?

 ルカ10章を見ると、イエスさまに遣わされた70人の弟子たちが、その伝道から意気揚々と帰って来て、鼻高々に大成功を収めた報告をします。「あなたのお名前を使って命じたら、悪霊さえも従って、出て行きました。すごい光景でした!お見せしたかったです。」

それに対して、イエスさまも、「そうか、それは良かったな、ご苦労さん」と、言って喜んでくれるかと弟子たちは思ったのですが、イエスさまの答えは思いがけないものでした。ルカ10:20

 

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 

弟子たちは、自分たちの仕事がうまくいった、成功した、だから、喜んで報告し、その成果をほめてもらいたかった、喜んでもらいたかったのでしょう。

 そんな思いは、今も昔も、大人も子供も同じでしょう。誰もが抱く感情でしょう。

 しかし、もしも、成功すること、成果を上げることのみが喜びだったらどうでしょう? 私たちは、いつも成功したり、いつも成果を上げて、認められ続けることができるでしょうか?多くの失敗をしたり、結果が出ないで、認められない、それどころか、非難、批判され、糾弾されることだってあるでしょう。 だとすれば、私たちは、ある時は喜びを味わい、またある時は挫折や失望する、そんなことの繰り返しの人生になってしまいます。本当にそれでいいのか!と思わされます。

 イエスさまは、私たちがそんな、当てにならない喜びではなく、どんなことがあっても、どんな状況に置かれても、決して消えることのない喜びをもって、歩んでいって欲しい!と願っておられるのです。だから、自分の状態に喜んだり、悲しんだりするのではなく、

 あなたの名が天に書き記されていることを、喜びなさい、と言われたのです!   

 私は、小3から教会に行くようになりました。親は小学校を卒業したら行かなくなると思っていたらしいのです。でも、高校生になっても通い続ける私に、母があきれたように、こんな事を言いました。「そんな、一銭にもならないのに、なんでそんなに行くのかねえ」と。私にとって、教会に行くのが楽しかったし、喜びだったんですね。

 じゃあ今、私の喜びは何だろうと考えた時、可愛い孫たちや子どもたち、妻の存在とその有難さ、信徒の皆さんと共に礼拝できること、礼拝で福音が語れること、食事をおいしく食べられること・・・・。それらは確かに喜びには違いありませんが、でも、その喜びは、いつまでも変わらないものなのか? いつまで続くのか? と思わされるのです!

 私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じて、心に受け入れた時、その瞬間に、私たちの名前は、天の「いのちの書」に書き記されるのです。私たちが、お母さんからおぎゃーと産まれて、生を受けると、その名を届ければ、役所の戸籍に記され、日本国民としての国籍を得ます。

 それと同じように、私たちがイエス・キリストを心で信じ、口で告白するとき、私たちは新しい命が与えられて、神の子どもとされ、早速その名が、天の「いのちの書」に記されるのです!  

 それは、どのような喜びにも勝る、桁違いの喜びであり、私たちが地上で味わう、どんな喜びにも勝る喜びなのです。また、時間の経過の中で、薄れていく喜びでもないのです!

 「私の名は、本当に天の『いのちの書』に記されているのだろうか?」 確信がない方は、何を差し置いてもまずそれを、確実なものにして欲しい! 聖書の言葉の裏付けをもって!

悪魔は、疑いを抱かせます。「本当に、お前のような者が、天に名が記されていると思うのか? 不信仰で、不真実な、お前が!」と。 どうか、自分を見て不安に思わないでください。 ぜひ、御言葉を握ってください。「私は、このみ言葉によって、確信を頂きました。私が不真実でも、神は真実なお方です」と信仰の宣言を、誰に対しても、自分に対しても、告白していただきたいと思います。

 イエス・キリストは、私を愛して、私のために十字架に架かって、私の犯した罪を全部背負って死んでくださり、墓に葬られ、しかし、よみがえって、今も生きておられる、真の救い主なのです。 それゆえ、

この方を信じ、この方に従って行く時に、恵みと祝福に満ちた人生を送れるのです!

 

(2)真理を喜ぶ 

 今日の聖句は「不正を喜ばずに、真理を喜びます。」です。 では、その真理とは、一体何を指すのでしょうか?

 それは、何より聖書そのものです! 聖書は、まさに真理の書物!

 そして、聖書の中でイエス・キリストは、驚くべきことを語られました。ヨハネ14:6

 

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

 

 世界中で、こんなことを言った人はいません! いろいろな道、書道、茶道、柔道、道を教える人は多くいるでしょう。 しかし、私が道です、と言える人はいません! 真理について語ります、真理について教えます、という先生方はいるでしょう。 しかし、「私が真理です」と言い切ることができるお方は、キリスト以外にはいないのです!  

 私たちにとって、何よりも、イエス・キリストこそが真理なのです! ですから、真理を喜ぶ、とは、イエス・キリストを喜ぶ、ということであり、これに勝る喜びはないのです!

 イエスさまを、神さまを喜ぶ最高の方法、それはこの礼拝そのものなのです。

 

(3)喜び広げよう   

 さて、最後に「真理を喜びます」とありますが、直訳すると「共に喜びます」と言う意味。  ですから、「愛は真理を共に喜びます」という意味なのです。 

 私たちは何を、共に喜ぶのでしょう? 共に賛美することを、共に礼拝をささげることを、主にある兄姉との交わりを、聖書を読むこと、祈ること、奉仕すること、それが喜びとなったのです! そして、このような喜びを、共に喜び、共に分かち合える兄姉がいる、ということが喜びとなった! 

 ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女性は、人生の幸せ、喜びは、結婚にあると考えて、結婚をしましたが、失望し、この相手では私の喜びは満たされないと思い、2番目、3番目、4、5番目、そして、イエスさまに、6人目の男性は、あなたの夫ではない、と言われてしまいます。さらに、水を汲みに来たこの女性にこう告げるのです。ヨハネ4:13

 

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」

 

 渇いて、渇いて、飲んでも、飲んでも、その渇きはいやされない! 

しかし、イエス・キリストに出会った時、驚くべきことが起こりました。イエスさまに出会ったことにより、彼女心の中に、喜びの泉が湧き上がって来たのです! 

 彼女は、水を汲みに来たのに、その大切な水瓶をそこに置いたまま、隠れるように暮らしていた町に出かけて行って、出会う人ごとに、大声で、「私は救い主に出会いました!」と、この喜びをみんなに語り始めたのです。  

「愛は不正を喜ばずに、真理を喜びます」「真理を共に喜びます。」

真理であるキリストの愛に満たされていることを喜び、感謝して、今週もそれぞれの場所へと遣わされて行きましょう。 

 
 

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