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愚か者になるなかれ

2025,11,2 ルカの福音書12章13-21節

 

 今日の聖書箇所の直前で、イエスさまは弟子たちに対して、権力者などの所に連れていかれたときに、何を、どう言おうかと心配するな、言うべきことは、その時に、聖霊が教えてくださるから。と語っておられました。 その時、群衆もその話を聞いていたと思います。ひとりの人が前に出てきて、唐突に自分の抱えている問題の解決をイエスさまに願い出るのです。

 クリスチャンであっても、何か自分の中で大きな問題を抱えていると、礼拝で、説教を聞いていても、その自分の問題が解決されない限り、聞いた説教は心にとどまらず、まさにうわの空状態で礼拝時間を過ごしてしまうのです。 本当は、そういう人こそ、その切実な問題を神の言葉によって、解決に導かれていけばよいのですが、なかなかそうはいかないのです。

 今日の箇所でイエスさまに願い出た人も、おそらく彼にとっては、その大きな問題が心を占めていて、イエスさまの語られたことは耳に入らなかったのでしょう。 ですから、13節で

 

 群集の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。

 

当時のユダヤでは、遺産の分配については、長男はほかの兄弟の2倍の遺産を相続する決まりになっていました。それは、父が亡くなった場合、母親や未婚の弟や妹たちを養う義務があったからです。この訴えた人が長男であったか、どうかはわかりませんが、兄弟の中でその決まり通りにしないで、強引に自分の取り分を多く要求した者がいたのでしょう。そこで、それをイエスさまに裁定してもらおうとしたのです。しかし、イエスさまは、14節

 

すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

 

イエスさまは彼の訴えを取り上げませんでした。しかし、この訴えがあったことによって、そこにいた多くの人々に大切なことを語り出すのです。 まず15節

 

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 

貪欲を辞書で調べると「非常に欲が深いこと。強欲。尽きることのない欲」とありました。また、「今自分が持っているもので満足せず、もっと欲しい、もっと欲しいという思い」との解説もあります。 この貪欲に、イエスさまは注意し、警戒しなさい、と言われるのです。

 貪欲によって天使であったものが堕落して悪魔になりました。貪欲によってアダムとエバは罪を犯し、人類に罪が入り込み、それ以来、貪欲によって、戦争が起こったり、殺人をしたり、争いが起こっています。 お金でも、財産でも、ある程度与えられても、それで満足できない貪欲な心が問題を引き起こすのです。 15の後半を新共同訳聖書は

 

「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

 

と記すのです。 

 昔から、財力にものを言わせて不老不死、あるいは不老長寿の薬を探し求めた内外の権力者がいました。 古代中国の秦の始皇帝は、不老長寿の霊薬を探すように徐福という学者に命じた、と歴史書にあります。しかし、結局はこのみ言葉通りなのです。この地上で、どんなに貪欲に財を蓄えても、それによって、いのちをどうすることもできない、とイエスさまは、明確に語るのです。 

 そして16節からのたとえ話に入っていくのです。

 

 ある金持ちの畑が豊作だったので、その人はそれを貯蔵しておこうと考えました。それは別に悪いことではありません。一生懸命働いて、多くの収穫を得、それを保存しておこうと考えるのは、当然の考え方でしょう。そこで彼は、今までの小さな倉を取り壊して、もっと大きな倉を建て、そこに収穫した穀物や財産を蓄えておくことにして、こう言うのです。19節

 

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

  

彼は大満足でこれからは安定した生活が待っていると考えたのです。 その時、神は彼にこう言われるのです。20節

 

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

 

イエスさまは、この話の中で、この人を、神が「愚か者」と言われたと語るのです。

 この人は、一生懸命働き、その結果、多くの収益を上げ、それを蓄えておくことにしました。しかし、死んでしまったら、その財産はどうなってしまうのか、という話だけであれば、どこにでもある話です。ここで彼が「愚か者」と呼ばれているのは、そのように多くの食糧を蓄えることだけによって、「安心して」しまったからなのです。 イエスさまは、このたとえ話を語られる前に、「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と言われました。  これは、財産が人の命を保証しないということもあるでしょうが、この言葉の意味するところは、財産は人間に永遠のいのちの保証はしないということなのです。

 私たちは、とかく自分の財産にしても、才能にしても、時間にしても、命にしても、自分のものだと思いがちです。しかし、そうしたものは、どれも自分のものではないのです。それらはすべて神から預けられているものなのです! そのことを正しく理解しないと、自分の人生を豊かにすることはできないのです。 

 ここで神が「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と言われた「取り去られる」という言葉は、原語では、「自分が当然返してもらうべきものを要求する」という意味なのです。ですから、私たちの命は、本来神のものであって、神が私たちに預けた命を返してもらうことを要求しておられる、ということになります。

 ですから、私たちは自分の命をはじめ、財産、才能、時間、子どもなどを主からの預かりものと心得て、それをどのように管理し、活用すべきかを、祈りつつ、導きを仰いでいくべきなのです。 彼が「愚か者」と呼ばれたのは、その点において賢くなかったからでした。

 しかし、私たちはどうでしょうか。私たちも、もし今まで愚か者としての生き方をしてきたのであれば、ここで悔い改め、自分に与えられている才能も、財産も時間も自分の子供も、自分の命も、実は与えられているのではなく、預けられていることをしっかり覚え、それらを忠実に管理し、神のみこころにかなった用い方をしていくことが、何より大切なことなのではないでしょうか。

 

 

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

彼が「愚か者」と言われたのは、彼の人生で死ぬことを計算に入れていなかったということもありますが、それ以上に、自分のためにだけ、蓄えた愚かさであって、神を意識していない蓄え方をしていたからです。それでは、神を意識した蓄え方とはどういう蓄え方なのでしょうか。 この地上の生活だけがすべてなのではなく、来るべき神の国のために備える蓄え方、生き方だと思います。

 今ある、確かなこの地上の生活のことを一生懸命考えるのが賢い人だ、と普通は考えられているでしょう。 しかし、それは、この地上の事しか関心のない人の考え方です。私たちはいつかみな死にます。死後のことも真剣に考えて、今をどう生きるかを見つけようとする人こそが、賢い人なのではないでしょうか。そして、死を意識して生きるということは、神を意識して生きることであり、そういう生き方こそが「神の前に富む者」、詳訳聖書では「神との関係において富む者」と訳し、さらに私は「神との愛の関係において富む者」と捉えたいのです。

 神様が、愚か者であった私たちに、あふれるばかりの、信じがたいほどの愛を注いでくださったがゆえに、私たちは「神との愛の関係において富む者」となれたのです。ローマ人への手紙5:6-8に示されているとおりです。

 

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

神を計算に入れない、愚か者でなく、人生設計のド真ん中に、神との関係を据えて、本当の意味で「賢い者」として歩ませて頂きましょう!

 
 

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