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心配するのはやめなさい

2025,11,9  ルカの福音書12章22-32節 

 

 

 今年もあと40日を残すのみとなり、だんだんと年末を意識する時期となってきました。そのひとつとして、今年の新語・流行語大賞のノミネート30語が発表されました。その中に「物価高」が入っていました。 今、国民が政治に求めるものは、第一に物価高対策でしょう。 

 今も、昔も人々の第一の関心事は「生活の問題」、具体的には、衣食住のことでしょう。

 前回のお話で、豊作で喜んで、多くの収穫物を大きな倉を作ってそこに蓄えて、安心しきっている者に対して、神様は愚か者よ、と言われ、さらにこう言われたのです。21節

 

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

こう言われてから、今日の話に入るわけです。22節

 

それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

 

人々に話していた状況から、再度、弟子たちに向かって語り始めるのです。人びとに対しては、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」と貪欲について語られ、そして、弟子たちには、「何を食べようか、何を着ようかと心配するな」と語られるのです。その理由が23節

 

 いのちは食べ物より大切であり、からだは着物よりたいせつだからです。

 

どういうことでしょう? ここでイエスさまが教えておられるのは、人間というものは、神のかたちに似せて造られているので、神が特別に顧みてくださる存在であるということなのです。「いのち」とか「からだ」とか言われているのは、人間のことを指しています。特にイエスさまが弟子として召してくださった者たちのことを、天の父なる神様が、いい加減にあしらわれるはずはないのです。だから、衣食のことで心配しなくてもよい、と言われるのです。

 命は食べ物のためにあるのではありません。食べ物が命のためにあるのです。命が先なのです。体が先で、体を覆うために着る物があるのです。

 衣食住のことで私たちが心配するのは、私たちを造られ、私たちに命とそれに必要なものを備えてくださる、造り主である神さまを忘れているからなのです。

 私たちは神さまによって救われ、神の働きに召された者たちなのです。その使命を与えてくださったお方が、私たちに使命を果たせないようにしておかれることがあるでしょうか。

 イエスさまは23節でこう語られてから、自然界の具体的な例を挙げて、心配する必要のないことを教えられるのです。24節

 

 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。 

 

イエスさまはそこらに飛んでいる鳥を指さしながら、見ながらお話になったのでしょう。あの烏のことを考えてみなさい。烏は蒔くことを知っているのか、納屋があるのか、倉があるのか。あの愚かな金持ちは、蒔いた、刈った、そして大きな倉を建てて蓄えた。 しかし烏を見なさい。そんなことは何にもしない。けれどもああやって実に伸び伸びと、何の屈託もなく自由に飛び回っている。

 これを養ってくださるのは神なのです。烏は神さまに養われているなんて思いもしません。造られた自然のままに行動しているだけ! でも、神様は、烏もお造りになったので、養われているのです。

 また着ることについては27節

 

 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

 

これもまた、イエスさまが語っておられたそのあたりの野に、無数の百合の花(パレスチナ特有の植物で百合科に属するアネモネの花)が一面に赤くきれいに咲き乱れている。これを見ながらイエスさまは語るのです。あの野の花のことを考えてみなさい。自分で美しくしようと努力もしないし、考えもしない。でもあのように美しく咲いているではないか。それこそ人間がどんなに努力しても、あのような美しさを現わすことはできないではないか、と。 「栄華を窮めたソロモンでさえ」とありますが、いつでも栄華の見本なるソロモンだって、あの花の持つ美しさを身に着けることはできなかったとも語るのです。そして28節

 

 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。

 

今日は咲き誇って、明日はもう炉に投げ込まれてしまう野の草でさえ、神はこんなに美しく飾ってくださる。 それならば人間は、空の鳥とは比べものにならないほど「はるかにすぐれたもの」であり、また、野の花さえ驚くほど美しく装ってくださるのだから、「ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」と言われるのです。だから、29節

 

 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。

 

ここでは、心配するな、ではなく、「気をもむことをやめなさい」と言われました。 イエスさまは弟子たちに、生活のこと、衣食について無関心でありなさい、と言っているのではありません。 イエスさまの弟子たる者は、コリント人への手紙第一10:31にこうあれと言われています。

 

「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」

 

ですから、無関心であってはならないのです。むしろ、どういうふうにしたら、神の栄光を現わすことができるのか、それを考えながら生活しなければならない、と言っているのです。

 また、25節で、こんなことをおっしゃっていますね。

 

 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 

私たちの命は、寿命は、神の御手の中にあります。神さまが「もうこれ以上、地上で労さなくてもいい。さあ、御国にきなさい」と言われれば、天国に行かせて頂くし、「まだ、あなたのしなければならない働きは残っているのだから、それをやり遂げるまでは、地上でなすべきことをしなさい」と言われれば、生かされて使命に生きるのです。 神様にすべてをゆだねて、生かされている限りは、喜んで主に仕えていきましょう。

 

 イエスさまの弟子が、衣食のことで心配し、気をもんでいるとしたら、イエスさまから28節の最後で

 

「ああ、信仰の薄い人たち。」

 

と言われてしまうのです。 けれども、イエスさまは「ああ、信仰のない者たち」とは言われなかったのです。 彼らにも信仰はあったのですが、情けないことに彼らは「信仰の薄い者たち」だったのです。 それでは、「信仰が薄い者」と「信仰深い者」との違いはどこにあるのでしょうか? いろいろな言い方があると思いますが、私は、何か問題にぶつかった時に、「信仰が薄い者」は、そこから逃げてしまい、「信仰深い者」は、主により頼んで、それを乗り越えていこうとする、そういう見方ができるのではないかと思います。

 とは言いつつ、私自身も、実際は逃げ出したい、と思うことがないわけではないのです。みなさん、どうですか? 自信をもって「私は、信仰深い者です」と言える方、いますか? 恐らくいないのではないかと思います。反対に「私は信仰の薄い者です」と言われるのではないでしょうか。 そういう自覚を持っている方が、健全ではないかと思います。信仰が薄いから、弱いからこそ、より主にお頼りして、導きを仰ぎながら、助けをいただきながら、一歩一歩、ゆっくりではあるかもしれませんが、着実に信仰の歩みを進めて行くことができるのではないかと思います。

だからイエスさまは、こういわれたのです、31節

 

 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

 

必要なものは、食べるもの、着るもの、だけでなく、信仰も与えられますとの約束の言葉です。

「神の国を求める」 どういうことですか。神の支配を求める。もっと言うと、神の御支配に従う歩み、神に従順する歩みを求めていく、ということ! マタイの福音書6:33と同じ約束です。

 

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 

 

 
 

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