宝のあるところに心もある
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
- 読了時間: 8分
更新日:7 時間前
2025,11,16 ルカの福音書12章32-34節
今日も短い箇所ですが、ここから神さまが私たちに、何を教えようとしておられるのかを受け止めさせていただきたいと思います。まず32節からから
小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
父なる神様は、私たちにご自身の国を下さる、と言うのです。天の御国に迎え入れてくださる。そのために、イエスさまを遣わし、十字架の贖いの御業によって、私たち汚れた罪人を聖めてくださって、御国の住人としてふさわしいものにしてくださったのです。 なんと感謝なことでしょう!
33節
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
信仰生活は、この世の常識とは逆の考え方が真理であると示しています。そのことは、イエスさまが語られた山上の説教に如実に示されています。マタイの福音書5:44
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
常識では、こんなことできないでしょう。でも、この後の46節でこう続けるのです。
「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」
また、ルカの福音書6:38には
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」
聖書的な考え方はこれなんです! 問題は、私たちが本気でこのみ言葉を信じて、行なっているか、なのです。
神にささげ、人に施す人は、神から大きな祝福を頂いて豊かになる、と言うのが、聖書が示す原則なのです。
もし私たちが神にささげるべき当然のものを惜しんで、ささげないとしたら、神のものを盗んでいることになる、と旧約聖書のマラキ書は語るのです。マラキ書3:8、10
「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉献物によってである。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
ささげもの、また献金についての教えは、聖書の何箇所にも記されています。
例えば列王記Ⅰ17章で見られる、神を第一にする人に対しては、神が豊かに祝福してくださることが、預言者エリヤと貧しいやもめとの間になされたやり取りによって描かれています。
長い間の干ばつで収穫ができなくなった時、神はエリヤに、ツァレファテの地に行ってそこのやもめに養わせてもらえ、と言われるのです。彼が出かけて行って、彼女に声をかけると、「わが家にはあと一食分のパンを作れる粉とわずかな油が残っているだけで、それでパンを焼いて食べ、あとは死を待つばかりです」と答えるのです。その時、エリヤはそのやもめに、こう言うのです。Ⅰ列王記17:13-14
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
そして、彼女がエリヤの言ったとおりにすると、彼女の家族はずっとその粉と油で作ったパンを食べることができ、かめの粉もつぼの油もなくなってしまう事はなかったのです。
これは奇跡です。 しかし、聖書の中だけのことではなく、今日でも、私たちの信仰生活の中で、神が必要と思われれば起こるのです。これが神の国の原則であり、真理なのです。
今日の箇所も全く同じことが語られています。「持ち物を売って、施しをしなさい。」と。しかし、多くの人は、「そこまではとてもできない」と思うのではないでしょうか。
・・・だれであっても、神が教える聖書の真理がわからないうちは、そんなことはできません。 しかし、神の教える真理がわかってくると、ささげることの恵みがわかってくるのです。
ですから、ここでも「持ち物を売って、施しをしなさい。」と言われただけでなく、
「自分のために、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。」
とも言われているのです。 人に施す、また、主の働きにささげることは、自分の宝を天に積み上げることになる、というのです。
この、言ってみれば天国貯金の特徴は、地上に蓄えるのとは大きな違いがあります!
「そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」
地上の金融機関は、破綻する可能性がないわけではありません。また、自分の家にしまっておいたら、泥棒に盗まれることだってあるでしょう。 実際に我が家のタンス預金が泥棒に盗まれたことがありました。 また、火事で失う事だってあるかもしれません。
しかし、天国銀行への預金は決してなくなることはないのです。これほど安全なことはありません。
しかしながら、どんなに多くの献金をしようが、どんなに熱心に施しをしようが、そこに「主のために」という愛がなければ、むなしいと聖書は語るのです。コリント人への手紙第一13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え・・・ても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
ですから、主のために、なされる愛の行為としての献金や施しが大切なのです。献金の場合には、主をどれだけ愛しているか、施しの場合には、その人をどれだけ愛しているか、ということが問われるのです。 愛の欠けている献金や施しは、時として自己満足や名誉心のため、また、売名行為である場合も考えられるわけです。
献金においては額より動機が問題であると言いましたが、それと同時に愛は精一杯それを表明しますから、自分にとって精一杯ささげることが大切です。
こんな話を書物で読んだことがあります。
ある教会の牧師先生が、ご自分の教会に転会してこられる方に「転会準備会」をしていた時に質問されたそうです。「みなさんは、どれくらいささげておられるのでしょうか?」ほかの人の献金額が気になるらしいのです。 牧師さんは答えました。「ほかの人の献金額は、気にせず、あなたは、精一杯ささげればいいのですよ」と。 それでもしつこく聞いてきたそうです。「どれくらいすればいいのか、教えてくださらないと困ります。」 そこで牧師は言いました。「ほかの人と比べることに意味がないのは、あなたとほかの人では収入の額が違うでしょう。それに信仰の程度も違うと思います。ですから、ほかの人と比較などしないで、自分にとって精一杯ささげたらいいのですよ。聖書はこう教えています。」と言ってコリント人への手紙第二9:6-7を開いたそうです。
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
ルカの福音書21:1-4では、イエスさまが多額の献金をした金持ちと、わずかしか献金できない貧しいやもめを比較して、
「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん献金しました」
と言われました。それは
「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
と説明しておられます。つまり、ささげた額ではなく、その人にとって精一杯の献金かどうかが問われているわけです。
なぜ、天に宝を積むことがそれほど重要であるかというと、
あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
私たちは、自分がどれだけ大切に思っているか、というものに心が向いています。 愛する人や仕事のことで心が一杯の人もいるでしょう。だれでも、その人の心が何によって占められているかによって、その人の関心事、その人の価値観がわかります。
神さまのことで心が一杯なら、宝を天に積むはずなのではないでしょうか。32節にこうあります。
あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
このことのすばらしさが、心の奥底にまで響いていたなら、私たちの心は、御国のことで占領されてしまうはずです。 そうであれば、天に宝を積むことは、むしろ自然にできるようになるのではないでしょうか。 まさに、イエスさまが語られた
「受けるよりも与える方が幸いである」
とのみ言葉を体験することができるでしょう。
そこでみなさんに問いたいと思います。あなたにとって、御国とは何ですか? いつか死んだら行く所、ぐらいにしか思ってはいませんか。
それとも、今あなたの生きる力は、御国(神)からのものですか。
私のために、天から降ってきてくださり、私の罪を贖い、今は天において、私のためにとりなしていてくださる主イエス・キリストの御国、やがて私たちもそこへ行き、御国の相続者として迎え入れられる御国。 それを今、あなたは心から信じ、受け入れておられるでしょうか。
そうであれば、あなたは喜びと感謝にあふれた、祝福の人生を歩むことができます。 そして、あなたは心から喜んで、多くのささげものをし、困っている人を助けることが、自然にできるようになるのです。
頑張って、一大決心をして、ではなく、示されたら、喜んですることができるように、聖霊が導いてくださり、そうさせてくださるのです。
聖霊の助けによって、天に宝を積む歩みをさせて頂きましょう。