常識を超える神のあわれみ
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026.4.19 ルカの福音書13章10-17節
今日の聖書箇所はイエスさまが、安息日に18年間も病の中にいた女性をいやされた、というのがまず記されています。10~13節
イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
イエスさまが安息日になされた奇跡の一つです。
病の霊につかれて腰が曲がっていた、とあります。18年も腰が曲がっていました。この女性にとって、これは辛い毎日であり、悲惨な状態での生活だったことでしょう。イエスさまは、この女性を(あわれみの目で)「見て、呼び寄せ」、病をおいやしになりました。
16 節で、「十八年もの間サタンが縛っていた」とイエスさまは言われました。ですから、これは単に病による苦しみ以上の、霊的な抑圧であることが分かります。
神が、エバを惑わしたサタンである蛇に対して、地を這うようになると呪われましたが、サタンは自分と同じ運命の中に、この女性を引き入れていたのです。
天を見上げることのできないようにし、呪われた地をいつも目にしていなければならない、地の塵を噛むような生活でした。
しかし、イエスさまが手を置かれたら、その腰が伸びました。すると喜んで神をあがめたのです。
このすばらしい神の御業に対して、会堂管理者はどのように反応したのでしょう? 14節
すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
会堂管理者というのは、単にその建物を管理する人ではなく、律法も管理する霊的な指導者でした。その彼が、神のすばらしい御業に対して、賛美ではなく憤って、自分の教えている群衆に対して、「安息日には働いていけないのだ!」と言うのです。
これが当時のユダヤ教の正統な教えであり、律法の解釈でした。 ですから、ここで会堂管理者は、当時の指導者としては、特別にひどいことを言っているわけではなく、当然と言えば当然のことなのです。
「この女性は十八年もこの状態だったのだから、今、この時にいやされなくてもよく、あと一日待って、安息日ではない時にいやされればいいのだ」と考えたのでしょう。
しかし、イエスさまは敢えて安息日にこの奇跡を行われたのです。
片手のなえた人をいやしたり、三十八年間足の不自由な人を立たせたり、生まれつきの盲人の目を開かれたり、みんな安息日でした!
なぜでしょう? 神様は何を最も大切にしなければならないかを、当時の常識を超えてまでも、示そうとされたからでしょう!
会堂管理者の言葉に対して、イエスさまは15節で、彼を偽善者と呼ばれています。
安息日に働いてはいけないと言いながら、彼らは働いていたからです。イエスさまは、こんなふうに面白い対比をされて、語りました。
牛やろばを小屋から解いて、水を飲ませに行くのに、それらよりずっと大切なアブラハムの娘を解いてやらないのは、おかしいではないか。
また、牛やろばは人によって縛られているが、この女性は、サタンによって縛られていたのだ。
牛やろばはせいぜい数日間しか縛られていないが、この女性は18年も縛られていたではないか、と言うのです。
教えていることと、全く矛盾することを行っているではないか、と指摘されるのです。
そもそも、安息日というのはイスラエル人が、奴隷から解放されて自由に安息ができるという日でもありました。 縛られているところ、囚われているところから解放される、というのが安息日の意味の一つだったのです。
そして、家畜をほどいて水を飲ませることは、どの家庭でも行われており、安息日ももちろん例外ではありませんでした。それは、労働とはみなさい、という解釈を彼らは行なっていました。
家畜でさえ解いてあげるのであれば、ましてやアブラハムの娘であるこの女性を、サタンの束縛から解いてあげるべきではないか! と言って彼女をいやされたのです。
安息日に、束縛を解くことは、もっともふさわしいことです。
との、あわれみの心を持って!
次に、女性の側から、いやされた者の側から、このいやしの出来事を見てみたいと思います。
イエスさまはたくさんのいやしの御業を行われました。その時、いやしを求める人に「わたしの心だ。きよくなれ」と言ったり、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。
多くのいやしを求める人は、主イエスさまに願い、求め、近づき、叫びました。 そこに、神の愛とあわれみが注がれ、いやしの御業がなされたのです。
今日の女性は、18年間も病の中に置かれ、それも、サタンに縛られていたのです。神のいやしを求めて、安息日ごとに会堂に来ては、主の恵みを求めていたのでしょう。 1年が過ぎ、3年、5年、10年、まだ、いやされないのか! あきらめかけたことも、あったかもしれません。 でも、彼女はあきらめずに、主の前に出続けたのです、18年間!
これは、私たちが倣うべき信仰の姿勢ではないでしょうか!
会堂管理者は、律法の心を理解しないで、形ばかりを求め、守ろうとしました。
律法の心は、神の愛とあわれみ!
なのです!
彼は、形式だけの律法主義に陥っていました。 当時の常識の中でしか物事を考え、判断することしかできなかったのです。
注意しないと、現代の教会も、私たちも、そうならないとは限らないのです。
常識的に考えることも大事ですが、常識に囚われてはならないのです!
出エジプトの時、モーセがパロに対して、「民を行かせ、荒野でわたしに仕えさせよ」と主の言葉を語った時、パロは、常識の中で行いなさいと、モーセにいろいろ妥協案を出しました。
国内で神にいけにえをささげよ。 3日の道のりを行けー遠くへ行くな。 壮年だけが出ていきなさい。 幼子は行ってもいいが、家畜まで連れて行ってはならない。 等々「主に仕えてもよいが、こういう形でやりなさい」という条件を付けるのです。
私たちが注意しなければならないのは、神の言葉通りでなく、条件を付けて、都合のいいように、常識の範囲内で従っていきます、という考え。 これが、私たちを霊的に弱めていくのです。
それは、神の御心から離れた歩みをしていくことになってしまうのです。
つい最近もお語りしましたが、イスラエルの民の大指導者であるモーセについて、聖書はこう記すのです。 民数記12章3節
さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
モーセのイメージは、非常に力強い指導力で、民を導き、時には怒りを発し、恐れられる存在でもあるリーダーとして見られます。 しかし、「モーセは地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と言うのです!
「謙遜」を辞書で調べると、
「自分の能力や成果を実際より控えめに表現し、相手に対して「へりくだる(自分を下げる)」態度や言葉のこと」
「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと」
とあります。 しかし、聖書が示す「謙遜」とは、
語られた神の言葉に対して、自分の意見、考えを差し挟まないで、そのまま従うこと!
神の言葉に従順すること!
なのです。 モーセは地上のだれにもまさって、主の言葉に従順した人物だったのです。
出エジプト記38~40章には「主がモーセに命じられたとおりに」と言う言葉が15回も出てくるのです! 「謙遜」ほど、私たちが身に着けるべき大切な品性はありません
モーセは地上のすべての人にまさって謙遜であった
=主の言葉に従うことについて謙遜であった
謙遜に主に求め、語られたとおりに、御心にかなった歩みをして行こうではありませんか!
第一サムエル記15章22節を読んで、メッセージを閉じます。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。