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動かされていた石

2026.4.5イースター マルコの福音書16章1~8節

 

 イースターおめでとうございます。声を大にして「主イエスは死からよみがえりました」と世界中に叫びたい、そう思います。まさに、歴史が変わる大きな、大きな出来事、

それがイースターです。 世界の歴史が変わるほどの大事件なのですが、この出来事を、ただ単にキリスト教のお祭り、あるいは、2000年前にそういうことが起こったという、言い伝えだと言って終わってしまったら、何の意味もありません。

 

 私たちにとってのイースターはどういう意味があるのかを、しっかりと受け止めなければなりません。 死者がよみがえる。ありえないことでしょう。でも、神にはそれができる! と信じることがキリスト信仰、聖書信仰なのです。

 死んでいた者が生きる者へと変えられる。聖書は、私たちひとりひとりにイースター、復活祭が必要なのだと教えるのです。

どうことでしょう? エペソ人への手紙2章1節には、

 

「あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者」

 

とあるのです。 同じエペソの2:4~6には

 

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリストイエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

 

とあり、またルカ15:32で放蕩息子の父は

 

「死んでいたのに生きかえったのだから楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」 

 

と語るのです。

 今日、個人的にイースターを迎えていただきたいと思います。

 

 イエスさまのよみがえりの記事は、4つの福音書すべてに書かれています。その中で今日は、マルコを中心に見ていきます。

 1節に「安息日が終わったので」とありますが、この日は何の労働もしてはならない日でした。 女性たちは、イエスさまの葬りの際に、何もして差し上げることができなかった。 愛する主に葬りの用意もできないなんて・・・。そんな思いから、夜明けが来るのを待ちきれずに、墓に向かいました。 彼女たちにとっては、イエスさまが死刑になるなんて信じられなかった。考えの中に全くなかった。思いもよらなかった。

 

 また、キリストの死を受け止めきれない弟子たちは、絶望のどん底に落とされ、腰が抜けて動けない、嘆き、悲しみ、泣き濡れていたことでしょう。それだけではなく、自分たちも捕まえられて、殺されるのではないかという、恐れの中で立ち上がる勇気もなく、家に芯張棒をかけ、震えている。そういう弟子たちの姿が、この時はあったのです。 

 

しかし、女性たちは強かった。立ち上がったのです!

 15章の最後46節には、女性たちが「イエスさまが墓に納められるところをよく見ていた。」のです。 そして16:1

 

  さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 

安息日の夜が明ける前に、「あの場所に行こう、主のお体に香料を塗って差し上げよう。」そう思って、墓に向かいましたが、そこには大きな問題が待ち構えていました。3節

 

 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。

 

男が数人がかりで、やっと動かすことができる、あの大きな石。自分たちでは動かせないと知ってはいたが・・・、墓に急いだ。 なぜ? 愚かな! 無計画な! 行っても目的は果たせないではないか!

 けれども、彼女たちは、決断した!①行こうと思い、行動に移した!②香料を買った =自分たちに出来ることをしたのです。 問題は残っているが、行動を起こした。

 一切の問題が解決したら・・・、すべての準備が整ってから・・・動いたのではない! 

そこにはイエスさまに対する愛が、彼女たちを動かした、と言えるのではないでしょうか。 愛はじっとしていられないのです!

 

 到着すると、思いがけないことが、驚くべきことが起こりました! まず4節

 

 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 

第一に驚くべきことは、石が転がしてあったのです。イエスさまに対する愛が、女性たちを動かした、と語りましたが、今度は、イエスさまがその女性たちを愛するがゆえに、石を動かしてくださった、と受け止めてもいいのではないでしょうか。 2番目に5節

 

 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

 

第二に驚くべきことは、墓の中に主の体があると思っていたけれど、なんと白い衣の

青年がいたのです! 天使であったのですが彼女たちには青年に見えました! 命にあふれている、命にみなぎっている年代が青年。老人の天使など見たことがありません。

命にみなぎっている存在、天使が青年に見えたのです。

 

 私たちは天国ではどんな年代で過ごすのでしょうか? 天で新しい命を頂いているので、みんな青年のように見えるのではないでしょうか。 そして3番目6節

 

 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。

 

第三に驚くべきことは、青年の言葉、復活のニュース、イースター、喜びの日、喜びの知らせを聞いたのです。 主の復活を記念して、日曜日に礼拝を持つようになったわけですが、毎週日曜日がイースター、復活を覚え、祝う日でもあるのです。  8節

 

 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

彼女たちは喜びよりも、驚き、恐れたのです。 初めのイースターは震え上がって、口もきけないくらいの驚き、恐れの連続だったのです。 

 7節で「そう言いなさい」と言われたのに、言わなかった、言えなかった。恐怖そのもの、ショックで口もきけないくらいの驚き。 私たちはイースターの出来事を、このように受け止めているでしょうか。この女性たちのように。 

 

 復活こそ、私たちの信仰の中心! もっともっと驚き、喜ぶべきでしょう!

 今日の箇所から3つのことに注目したい。

①4節「すでに」ころがしてあった  

神はいつも 私たちの先手、先手を打たれる。先回りしてくださる。私たちは神様より先に、いろいろ考えて、考えて、思い煩ってしまう。 マタイ6:34「明日のことはあすが心配する」とあるのに。

 

②4節「目を上げてみると」

象徴的な表現。 目をあげてみれば、大きな石は転がしてあった! 目を伏せていると それが見えない。目を伏せて、自分の考えで、どうしよう、どうしようと思っていたのでは、見えるものも見えなくしてしまう。信仰とは目を上げて主を見ることなのです。

 

③7節「弟子たちとペテロに」

ペテロの心的状態は、イエスさまを3度も否んだこんな自分を赦せない、情けない、もう弟子と呼ばれる資格もないものだ、と落ち込んでいました。

 そこに、単に「弟子たちに」ではなく、あえて「とペテロに」と付け加えられていました。ここにイエスさまの愛の配慮を見たのです。「弟子たちに」だけだったらペテロは立ち直れなかったかもしれません。自分で自分を責めて大きな石が心を塞いでいたでしょう。

 マルコ福音書はペテロから聞いて書いたと言われています。「とペテロに」によって彼は立ち上がることができたのです。 なんと、主はこんな私のことも赦してくださっているのだ。動かしがたい大きな石はすでに取り除けられていたのです!

 

 復活の主は、今も生きておられ、私たち一人ひとりを名指して呼んでおられるのです。こんな私は忘れられているのではないだろうか? と思うことがあるかもしれません。いいえ、「わたしはあなたの名を呼んだ」「わたしはあなたを愛している。」と言ってくださる主を見上げ、このお方を喜び、このお方に頼り、このお方に感謝をしつつ歩んで行こうではありませんか。                      

 
 

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