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安息日をどう過ごすか

更新日:2024年7月8日

2024.7.7 ルカの福音書6章6-11節

 

(1)  律法学者やパリサイ人への挑戦 

 今日の聖書箇所は、律法学者、パリサイ人(律法を厳格に守ろうとし、それを人々に要求する人たち)がイエスさまがすることに対し、律法に違反している!なぜ守らないのか!と批判の声を上げている内容です。いわゆる安息日論争と言われる出来事が起こされるのです。安息日の規定はユダヤ人が最も守るべき律法、神がモーセを通して与えられた十戒の中に明確に記されているのです。出エジプト記20章8-10節

 

 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。

 

 律法を通しての神とイスラエルの民との関係は、聖書を通して語ってくださる神と、私たちの関係と同じなのです。 神はイスラエルを愛するがゆえに律法を与えられました。同じように神は私たちを愛するがゆえに、聖書を通して語ってくださるのです。

 私たちが神に従うことによって、幸いな、祝福された歩みができるように、また、祝福の基となるように、律法を、みことばを与えてくださったのです。 そういうことを理解した上で、今日の箇所を見ていきましょう。 6-8節

 

  別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。

 

 「律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」 そういう中あって、イエスさまは敢えて手の不自由な人に「立って、真ん中に出なさい」と言われたのです。

 

(2)安息日の精神

 そして、9節で律法学者、パリサイ人たちに対してこう挑戦的なことばを投げかけるのです。

 

 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」

 

 これは本来の安息日規定とは全くその精神が変質されてしまった現状を、本来の意味に戻すための問いかけなのです。主は「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。」と言われました。律法学者やパリサイ人は何もしないことが良いことなのだ、と安息日の律法を理解していました。しかし、主は、安息日はただ何もしないでいればよい日なのではなく、しなければならない時には、善を行なわなければならない日なのだと言われたのです。 実際、彼らも 安息日にしても良いことがあることくらいは分かっていたはずです。 しかし彼らは、それをだれもがしても良いとは認めなかったのです。 けれどもイエスさまは、はっきりと安息日には善をすることは良いことなのだと主張されたのです。

 イエスさまは、その善を行なうことと、悪を行なうこととを「いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と言いかえて問いかけるのです。善を行なうこととは、命を救うことであり、悪を行なうこととは、命を失う、殺すことだというのです。安息日が定められた目的は、人に安息を与えることです。しかし、安息よりも優先されなければならない、人の命に関わることであるならば、安息をやめてでもそれを優先させなければならないのです。律法学者やパリサイ人が主張しているように、安息日には何もしてはいけないということが絶対化されてしまうと、たとえ良い事でもそれを理由に良いことが行われなくなってしまうのです! 

 ですから、イエスさまはあえて、安息日にいやしのわざをなさったのです。これこそ、イエスさまが教えようとしたことでした。 ヤコブの手紙4章17節にこうあります。

 

 こういうわけで、なずべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

    

(3)律法の全体は愛

 イエスさまは今まで、安息日の本来の目的からそれてしまった教えに縛られていた民を、神の愛に裏付けられた律法の目的に従って、喜びをもって、感謝をもって歩んで行けるように、ハッキリと示してくださったのです。 

 律法の一字一句を厳格に守る事より、たとえ安息日の規定を破るようなことになっても、命を助け、救うことの方が、律法の精神、神のみこころにかなうことなのだ、と彼らに示されたのです。 

 律法の精神をガラテヤ人への手紙5章6節はこう語るのです。

 

  キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、

愛によって働く信仰だけが大事なのです。

 

「割礼を受ける受けない」を「律法を守る守らない」と読み替えると、分かりやすいでしょう。「愛によって働く信仰だけが大事なのです」   また、続く5章14節ではこうあります。

 

  律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

 

 間違えないで頂きたい。律法を、聖書の言葉を守らなくてもいいと言っているのではありません。 問題は、ただ守っていれば良い、という信仰生活でいいのか、ということなのです。

 礼拝にきちんと出ています、献金もしています、聖書も読んでいるし、お祈りだってしています。確かに立派な信仰生活に見えます。 しかし、そこに生ける神との、親しい、生き生きとした交わりが持たれているかが問われるのです。 時には厳しいことを語られ、時には喜びにあふれて主を賛美するといった、神との親しい関係が築かれているでしょうか? それこそが、真の信仰生活なのではないでしょうか。

 もし、みなさんが、礼拝に来る途中に、事故を起こしたその瞬間を目撃したとします。その場の状況にもよるでしょうが、まず考えねばならないのは、けが人がいたら、その救出、または119番通報をする、どなたかに110番を依頼する。それが愛によって働く信仰ではないでしょうか。誰かほかの人がやってくれるでしょう、と言ってスルーして礼拝に向かうことが、信仰者の姿勢でしょうか。

 真の、豊かな信仰生活、それは神がどんなに私を愛してくださったかを日々、深く知り、この神の愛を豊かに注いで頂いた者として、へりくだって、隣人を愛し、隣人に仕えていくことによって、神の愛を表していくことではないでしょうか。 

 聖霊の助けを頂いて、そのような歩みをさせて頂きましょう。

 
 

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