安全で確かな錨
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 3 日前
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2026,7,5 へブル人への手紙6章13-20節
年齢を重ねた夫婦になると、「あれ取って」とか「あれどうなった?」で会話が成立するということがありますね。
前回の見た、へブル6:12には
信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
とあります。「あの人たち」? どの人たち? この手紙を読んだ人たちには、いろいろな信仰の先輩たちが浮かんできたことでしょう。11章には「あの人たち」と言われる、信仰に生きた人たちが何人も挙げられています。
へブル書の著者は、あの人たちの代表としてアブラハムを取り上げます。イスラエル民族の父、また信仰の父と言われるアブラハム。
アブラハムは神の声に従って、まだ見ぬ地へと出て行きました。そして神はこう言われたのです。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」 アブラハムが75歳の時でした。
しかし、約束されたその子孫の初めに当たる子がなかなか与えられません。アブラハムは神さまに「あなたが子孫を下さらないので、私の家で生まれた使用人の子、エリエゼルが跡取りになるのでしょうか?」と訴えるのです。すると、神は「いや、あなた自身から生まれる者が跡を継がねばならない」と言い、そして、外に出て夜空の星を見させ、「この星を数えることができるなら、数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。すると聖書は「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記すのです。
しかし、アブラハムが85歳になった時、妻サラの浅知恵で「ハガルによって」生まれたのがイシュマエル、アラブ人の祖先です。アブラハム86歳の時でした。
その13年後、アブラハムが99歳のとき「来年の今頃、妻サラが男の子を産む」と神が言われ、その約束の子、イサクが与えられたのです。なんと100歳の年寄りの子! 超かわいかったことでしょう!
しかし、創世記22章で神はアブラハムに命じるのです。「イサクを全焼のいけにえとしてわたしにささげよ!」 アブラハムは悩んだことでしょう。あの約束「あなたの子孫によって・・・」との約束はどうなるのか? この神の言葉は矛盾としか言えない! けれども、アブラハムはその神の言葉に従って、示された山の上で祭壇を築き、イサクを縛ってそこに寝かせ、刀を振り上げ、その子を殺そうとした、まさにそのとき、神から待ったがかかるのです。 これは神への信頼と従順を試すテストだったのです。 目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている、一頭の雄羊がおり、それをイサクの代わりにささげたのです。
今日の最も大切な場面は、そのあと! 創世記22:15~17
それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。
「これは主のみ告げである。わたしは自分にかけて誓う。」とあります。
ヘブル書はこの箇所を取り上げるのです! へブル6:13
神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
・・・何気なく読み飛ばしてしまいそうな所ですが、ここは、とても重要な箇所なのです。
私たちも何か約束をする際に、ただ約束するだけではなく、それをより確かなものにするために、
文書を交わすことがあります。典型的なのは契約書! 子どものころは「指切りげんまん、噓ついたら 針千本の~ます」なんて、考えてみると恐ろしい内容の約束をしたわけです。
結婚式の時に、神の前に誓いを立てます「誓約」をするわけです。 それは、16節にあるように「自分よりすぐれた者を指して誓う。」と言う事なのです。 自分は、約束は必ず守ると言っても、そこは人間の弱さがあって、悪意はなくても、守れないことがあるわけです。だから何か大きな契約をするときなどは、保証人が必要になって来るわけです。
この教会の建物を20年前に借りる「賃貸契約」をした時、借主は、教会の責任者である私なのですが、連帯保証人が2名必要でした。さらに、通常の倍以上の敷金も支払うことで、賃貸契約が成立したのです。何重もの保証をつけたうえで契約ができたのです。
人間の約束、誓いと言うものは、そういうことをしなければ安心できない、逆に言うと、それだけ不確かなものであると言えるのかもしれません。
最後の晩餐の席で、ペテロに対してイエスさまは「あなたは鶏がなく前に、3度わたしを知らないと言う」と言われました。ペテロは「たとえ死ななくてはならなくても、ほかのみんなが裏切っても私は絶対にそんなことは言いません!」と主張するのです。しかし、現実には自分を守るために、反射的に「知らない!」と3度も言ってしまうのです。
考えてみると、この世の中には、絶対と言えるものはないのではないかと思います。裏切ることのない誠実さ、真実なものを私たちは得ることができないのでしょうか? 見出すことはできないのでしょうか? あります! たった一つだけ、それは神の約束、神のことば、神の真実です!
神はアブラハムに対する約束を確かなものにしようとされて、ご自分より上の者、確かな存在はないので、自分にかけて誓われた、と言うのです。
この論理と同じことが、神の言葉、聖書が誤なりのない神の言葉である、と言うことなのです。その証明はどこにあるのか? 聖書自身が、神の言葉と証言しているからなのです!
聖書の言葉は聖書の言葉によって証明される。 しかし、クリスチャンでない人は、そんな論理は成り立たない!証明にならない!と言います! しかし、それしかないのです。聖書が生きた神の真の言葉であるなら、聖書以上に権威ある言葉はありません。 それを、人間の知性、理性が聖書の上にあるかのように思い込んで、これは私の理性からして、経験からしておかしい、これは神話だ、これは作り話だ、こんなことはあり得ない・・・と自分の理性を上にして判断するのです。
聖書が神の言葉であることは、聖書自体がそう述べている以外に、私たちが確かめる道はないのです!
私たちは神の約束に生きる者です。神の子とされた、その証明は? 永遠のいのちを持っている! 証明書ある? 「見せて!」と言われても見せられない。聖霊によって内にキリストが住んでいてくださる、が見せられない。
何を裏付けとして、信じているのでしょう? 神の言葉の約束を信じているのです!
神から与えられる希望の約束! たくさんの約束を信じている! それは神の言葉による裏付けがあるからなのです!
19節
この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。
この希望は、錨の役目を果たすとあります。船にとって錨は命綱!
初代教会のクリスチャンたちは、激しい迫害の中に置かれていました。彼らはアリの巣のように張り巡らされているカタコンベという、地下の墓にもぐりこんで、そこで礼拝をささげていました。 今でも、イタリアに行くとカタコンベツアーと言うのがあって、ガイドは「勝手に動かないで、迷子になって出られらくなります」と注意するそうです。
そんなカタコンベに逃げ込んで信仰生活を守ったクリスチャンたちが残した絵がありました。そんな絵の中に、魚と錨の絵がありました。 車の後ろに魚のスッテッカーが貼ってあるのを見たことがあるでしょう。あの魚のステッカーはクリスチャンのしるしなのです。「神の子、救い主、イエスキリスト」の頭文字を並べるとギリシャ語で「イクトゥース」となり、それは魚という意味なのです。 カタコンベにクリスチャンが集まる時、もし、ローマ側の人が入り込んで密告されたら大変なので、本当にクリスチャンなのかどうか確認するために棒切れで、地面に弧を描いて、相手に渡して、反対側に弧を描いて魚の形ができたら、クリスチャンである証になるわけです。
そして、錨。へブル6章では希望を現わす錨! この錨をよく見ると、十字架が入っています。
それをクリスチャンたちは自分たちのシンボルにしたのです。初代のクリスチャンたちが、どんなに激しい迫害にあっても、決してその信仰を投げ捨てず、忍耐し続けられたのは、彼らに安全で、確かな錨の役を果たす希望があったからなのです! どんなに激しい嵐が来ても、錨がしっかりと海底の岩に食い込み、バランスを保っている船は守られます! そしてこの岩とはイエスキリストを指しており、私たちの安全で確かな錨は、神ご自身に結びつけられている、というのです。
イエスさまが、私たちを神と結び付ける働きを成し遂げてくださった! 私たちと神とは罪のためにその関係が断ち切れていました。まさに錨の切れた船のように不安定で、どこに流されて行ってしまうかもわからない存在だった私たちに、イエスさまが十字架の御業によって、しっかりと私たちと神とを結び付けてくださったのです。
私たちの信仰の錨はイエスさまによって天に、神ご自身に結びつけられているのです!
初代教会のクリスチャンたちは、錨をシンボルにして信仰を保ち続けました。 私の錨は天に下ろされている、神としっかり結びついているんだ! その信仰のゆえに、神の確かさによって保証された、その希望を持ち続け、彼らは何があってもその希望を捨てなかったのです。耐えていったのです。
私たちの錨が、天に結びついているということを覚え、大きな感謝と喜びをもって、確信をもって、今週も歩み出しましょう。