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失意の中でこそ、神のことばが

2024.4.21 ルカ5:1-11


(1)失意の中でこそ

 私たちの歩みの中では、一生懸命やっても、頑張って努力しても、うまくいかない、報われないことがありますよね。徹夜で試験勉強しても、いい成績が取れなかった、受験勉強頑張ったのに志望校には不合格、就職したかったのに面接した会社からは不採用通知ばかり。あるいは家庭内の人間関係が壊れてしまったりと、様々な辛い経験をしてきた方々がいるのではないでしょうか。

 今回のペテロの状態がまさしくそうでした。一晩中、一生懸命漁をしたのに、1匹の魚も獲れない。  子どもの頃から、慣れ親しんで来て、湖のどこで、どんな風に漁をすれば魚が獲れるのか、知り尽くしているガリラヤ湖。それなのに、今日は、1匹の魚も獲れない。・・・彼は心身ともに疲れ果てていたことでしょう。 しかし、そういう状態の時に、イエスさまから声をかけられたのです。4-5節からイエスさまとペテロの会話部分だけを見てみましょう。

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

なぜ、ペテロはこのように言うことができたのでしょうか? 2つの理由が考えられます。

 1つは、夜通しの漁で1匹の魚も獲れなかったから。漁師としての知識経験を生かして大漁だったら、成功した後では、「ではもう一度、おことばどおり、網をおろしてみましょう。」とは言わなかったでしょう。

 もう一つは、舟から群衆に向って語られたイエスさまの話を、その足元でよく聞いていたから。漁に失敗し、がっかりして、空しい、やり切れない失意の中で、イエスさまのお言葉を聞いていたということ。 イエスさまのおことばは、そのような人生の空しさの中で、失意の中で、失敗の中でこそ、力強く心に沁み込んでくるのです!   

 人間、得意な時、順調の時は、人の言葉に耳を傾けることはしないでしょう。思うようにことが運ばない時、そういった行き詰まった時、自らがまったく空しくなったその時こそ、素晴らしい神の言葉を受けとる、神の言葉の真実を体験することができる時なのです。 ですから、ペテロは「でもおことばどおり」とイエスさまの言葉に無条件で従うことができたのです。

 私たちの人生においても、そういう時がしばしばあるのではないでしょうか? 大きな失敗、挫折を時には経験し、また、小さな落胆、がっかりすることは頻繁にあるでしょう。 けれども、忘れてならないのは、私たち、キリストを信じる者にとっては、そのように自分の心が空しくなる時、思うようにことが運ばない時、失意の時こそ、キリストの言葉を心に受けて、その素晴らしい世界に導き入れられる時だということ、その最も良い時だということなのです!  ヨハネ7:37-38でイエスさまは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。」と言っておられます。 今、物事がうまくいかない、何か行き詰まりを感じる、なぜだかわからないけど空しさを感じる、そんな人がいるでしょうか? その渇きを、空しさを持って、そんな心を潤し、愛と喜びに満たしてくださるイエスさまのもとに行って、人からではない、神からしか得ることのできない、安らぎと希望を頂きましょう。


(2)神の御前の罪経験  

 ペテロは、イエスさまのおことばどおり、網を下ろしました。6-7節「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。」 従った時、ペテロは信じられないほどの素晴らしい出来事を目の当たりにしたのです。 そして、その時、イエスさまの中に人間を超えた神聖なるもの、神を見たのです。ですから、イエスさまに対する呼び方が「先生」から「主よ」と、神に対する呼び方に変ったのです。8-9節「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。」 ここでペテロは、神のひとり子、神ご自身であるイエス・キリストに触れ、今まで経験したことのない自分の罪深さを自覚させられて、愕然としたのです。

 私たちが罪を自覚するのも、このペテロと同様なのです。教会に行き始め、説教を聞き、聖書を読み進めていく中で、真の神に触れ、神からの語りかけを受けていく時、神と自分との関係において、「私は罪深い者です、私から離れてください」とペテロが叫んだように、キリストと私、神と私の関係に立って初めて、本当に自分の罪というものが明らかにされるのです。

 

(3)何もかも捨てて  

 10節には「イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』」このイエスさまの「こわがらなくてよい」という語りかけは、自分の罪深さを示されたペテロの告白に対する、赦しの言葉でもあると言ってもいいでしょう。そして、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言って、招きの言葉をかけ、尊い働きへと召してくださったのです。すると11節「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」とあります。

・・・もし、あなたの前にイエスさまが現れて、「わたしについて来なさい」と言われたら、彼らのように、何もかも捨てて従っていけるでしょうか? 「そんな恐ろしいこと言わないでください」「イエスさまは、私にそんなこと言いませんよ」とお思いでしょうか? 今日ここで、この説教を聞いている皆さんに、イエスさまは語っておられるのです。このイエスさまの言葉は、何も伝道者への招きの言葉だけではないのです。すべて信じる者への言葉でもあるのです。こわがる、恐れる必要はないのです。

 先週もお語りしたように、自分が置かれた場所で、神を愛し、隣人を愛して、神に仕え、隣人に仕えていくなら、その歩みを通して、神さまが「人間をとる漁師」にして下さるのです。具体的には、生活のすべてにおいて、第一にすべきことを第一にして歩んで行く! 優先順位を間違えないこと! 心に刻むべき言葉はマタイ6:33「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 

 イエスさまに従うとは、このように歩んで行くことなのです! 

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