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外側ではなく内側を

更新日:9月1日

2025,8,31 ルカの福音書11章37-41節

 

 今日の中心的な内容は、説教題そのもの。「内側と外側」についてです。37節から

 

 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。

 

 イエスさまが大勢の群衆に対する話を終えられたとき、一人のパリサイ人がイエスさまに声をかけて、自分の家に食事に招きました。

 自分の家に誰かを食事に招くという場合、その相手は親しい人や、もっと親しくなりたい人、あるいは、これから良い関係を築いていきたい、などという人ではないでしょうか。 イエスさまを招いたこのパリサイ人は、当時の多くのパリサイ人とは違って、イエスさまに好意を持ち、共鳴し、尊敬もしている人物だったと考えられます。 イエスさまは彼の招きに応じて、彼の家に行き、食卓に着かれました。ところが、さあ食事をしよう、とするとき、38節

 

 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。

 

 当時のユダヤ人、特に律法を重んじるパリサイ人は、食事の前に必ずきよめの洗いという、手に水をかける習慣がありました。これは、現在の私たちが行っている、衛生的な面から手を洗う、ということではなく、宗教的な儀式として、習慣化していたのです。

 ところが、イエスさまは、そのきよめの儀式をしませんでした。なぜしなかったかというと、普段からそれをしていなかったからです。 では、なぜイエスさまはそういうことを、なさらなかったか。その儀式は、人間が作った言い伝えに過ぎなかったからなのです。 イエスさまは、旧約聖書で教えられている律法については、厳格に守られました。 しかし、人間が作った言い伝えを守ろうとはなさいませんでした。

 けれども、パリサイ人にとって、この言い伝えに過ぎない規定を守ることは、とても重要なことで、それが律法を守ることだと考えていたのです。 しかし、食前に手を洗うという規定は、律法にはないのです。 

 招待主のパリサイ人は、きよめの儀式をしないイエスさまを見て、びっくりするのです。好意を持ち、尊敬しているイエスさまが、当然するだろうと思っていた儀式をしない。「なぜだ?」とびっくりするのです。 彼は、ずーと持ち続けてきた、自分の「判断の物差し」でしか物事を考えられなかったのです。

 一般的に、道徳家、教育家、真面目な人、宗教家と言われる人ほど、このパリサイ的な考えになりやすいのではないでしょうか。自分の物差しに固執してしまうのです!

 私たちクリスチャンは、自分の物差しや、世の中の物差しでもなく「神の物差し」によって、判断し、行動していかないと、信仰そのものが揺らいでいってしまいかねません。

 驚いたパリサイ人に対して、イエスさまは39節でこう語るのです。

 

  すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。

 

好意をもって、自分を食卓に招いてくれた相手に対して、「あなたの内側は、強奪と邪悪とでいっぱいだ」なんていきなりイエスさまは語ります。普通であれば、私だったら、たとえ心の中でこれはおかしい、と思っても食卓についてすぐに、このようなひどいことは、とても言えません!

 でもイエスさまは、そのような人間関係を第一に考えた言動はなさらないのです! 今、ここで、間違ったことが語られ、間違ったことが行われたとしたら、それを正さないわけにはいかない、というのがイエスさまなのです。

 それにしても、イエスさまはストレートにお語りになりますね。「強奪と邪悪」。すごい言葉ですね。「悪い心をもって強引に奪う」。この「強奪」とあるのは新改訳聖書だけで、他の4つの聖書訳では、「貪欲」との訳が多いのです。非常に欲深いという意味です。 普段人々に、尊敬をもって見られ、自らも信仰深い者として、ふるまっているパリサイ人に対する、痛烈な批判の言葉です。

 

 目に見えるところは、さも信仰深く、儀式を重んじて、うやうやしく行う聖い姿に見えても、目に見えない内側は、その全く逆で、強奪と邪悪な思いで満ちているではないか、と指摘するのです。

 聖書に出てくるパリサイ人だけではなく、人はみんな、自分の努力で自分を聖くすることはできないのです! だから、せめて外側だけでも聖く見せようと、虚しい努力をするのです。

 いかがでしょうか? 静まって自分自身を振り返ってみると、確かにそうだなあ、と思う人が多いのではないでしょうか。

 人間のうちには、生れながらの性質として、貪欲と悪い思いがあるのです。何でも自分のものにしたい。お金も、名誉も、地位も、称賛も。クリスチャンになってからも、貪欲や悪い思いが、時として頭をもたげて、人との関係を悪化させたり、教会の中で問題を起こしたりするのです。 

 イエスさまのこのパリサイ人に対する言葉は、私たちに語られているものでもあるのです。自分では貪欲な者ではない、と思いたいし、そう思っているのですが、やはり外側をきれいにして、人によく見られたいのです。私自身、特に牧師という立場にあるので、なおさらそういう意識が強く働くのです。 外側をきれいにしよう、立派に見せよう、信仰的に見てもらおう、というふうに、外側を気にする心が貪欲なのです。 マタイの福音書15:18で

 

 口から出るものは、心から出てきます。

 

とイエスさまは語られました。まさに、外側に出てくるものは、内側から出てくる、と言っているのです。 いくら外側をきれいにしても、やがて本質である内側のものが現れてくるのです。ですから、私たちは内側の聖さを求めていかねばならないのです。

 では、どうしたら内側を聖めていただけるのでしょうか。イエスさまはこう語ります、41節

 

 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとってきよいものとなります。

 

あなたの持っているものを、施しに用いなさい、というのです。ポイントは「施し」=「与える」ということ! 現代訳聖書では「人の内側が、施す心に変えられるなら」とあります。

 要するに、聖書全体をとおして語られている「神を愛し、隣人を愛する」こと。具体的には、「ささげる」「与える」ことによって愛を実践しなさいと語っているのです。そして、そこにはみ言葉の裏付けが与えられているのです。使徒の働き20:35

 

 受けるよりも与える方が幸いである 

 

また、ルカの福音書6:38

 

  与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

 

そして与えるものは、肉体の必要だけでなく、霊的必要も、パンと神のことば、両方を与えていくのです。 マタイの福音書4:4

 

 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』

 

 さきほど紹介した現代訳聖書の41節に

 

 「人の内側が、施す心に変えられるなら」

 

とありました。 ここで、「変えるなら」ではなく「変えられるなら」とあります。これは神さまにしかできないこと! 私たちはそのことを聖霊によって、明確に示して頂いて、だからこそ、神さまに全面的にお頼りし、お委ねして、自らをお任せしていく時に、「神さまが」私たちを、喜んで、進んで与える者に、ささげる者に変えてくださるのです。

 

 私たちを変えて下さる神さまは、どんなお方ですか。

 ひとり子さえ惜しまずに、私たちを、罪の結果である、永遠の滅び、永遠の苦しみから救うために、身代わりとして、十字架で罰してくださった、計り知れない、あり得ないほどの愛を注いでくださったお方です。 私たちが何か良いことをしたから、ではないのです! 何の良いものはないにもかかわらず、ひとり子イエスさまの命と引き換えに、私たちを救ってくださったのです。

 このイエス・キリストを私の救い主として、信じて従っていきます、と心の中心にお迎えすれば、あとは神さまが、変えて下さり、聖め続けて下さるのです。

                              

 19世紀の英国で、孤児1万人を支え、世話をしたジョージ・ミュラーは十代までは、手が付けられない非行少年で、逮捕投獄されたこともありました。しかし、二十歳のある日、友人から誘われて行った家庭集会で神に触れられ、変えられるのです。やがて、孤児院創設のために祈り続けた結果、「あなたの口を大きくあけよ、わたしはそれを満たそう。」詩篇81篇10節の語りかけを頂き、生涯この御言葉によって、孤児院事業を進める決意をするのです。

 ミュラーは「私が信仰を捨てない限り、神には制限がなく、何度でも満たすことができる。今日救いたもう主は何年後でも救われる」と語っと伝えられています。    

 神のことばを信じ、お頼りし、自分を神にお任せしていく時に、神は信じられないほど素晴らしいことをして下さるのです。

 
 

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