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執筆者の写真木村勉(ジョイチャペル牧師)

喜びをもって主に仕えた

今週の講壇 2024.10.13 ルカの福音書8章1-3節 


(1)マグダラのマリア

 今日の聖書箇所は3節と短い所ですが、ここからイエスさまに従った女性たちが、どんな歩みをしていたのかをみていきたいと思います。 何が記されているのか、1-3節


 その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、  自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。


 福音書を読むと、弟子たち出てくるときには、必ずと言っていいほど、まず最初にペテロの名が出てきます。そして、イエスさまに従っていた女性たちでは、マグダラのマリアの名がまず出てくるのです。

なぜ彼らはいつも先頭に名まえが出てくるのでしょうか?

 複数人の名前が出てくるときには、普通はリーダー的な存在、能力のある人、中心的な人物がまず先に置かれます。 しかし、世の中と聖書の世界は真逆なのです。第一コリント12章で、教会はキリストの体であり、神は弱い者、見栄えの良くないもの、劣ったところを、ことさら尊ぶ、とあります。ですから教会の中心は、よくできる人、立派な人ではないのです。最も弱い者、失敗ばかりしている人、見下されている人、無視されるような人、そういう人たちこそが、教会の中心的な存在なのです。ペテロもマグダラのマリヤも、偉いから、立派だから、よく働くから、その群れの先頭に名が記されたのではなくて、困った人、目を離してはいけない人だから、まず名を挙げておかねばならなかったということなのです。 そういえば、私も、かつての教え子を思い出す時には、まず、暴れた生徒、困らせてくれた生徒、手のかかった生徒の顔が思い浮かんできます。  

 マグダラのマリヤは、7つの悪霊を追い出して頂いた女、とあります。聖書では7は沢山の、という意味があります。 詳しく書かれていないのでわかりませんが、多くの悪霊が彼女を苦しめ、悲惨な状態に置かれていたのでしょう。肉体的にも、精神的にも全くの悪い状態の自分に、自分でもあきらめていたのでしょう。そんな状態の時に、イエスさまに出会って、絶望のどん底から救われた!

 このマリヤのように自分はもうダメだ、どうしようもない、そう思った時こそがキリストによって本当に救われる時なのです! 自分自身に絶望しても、人から絶望されても、この世に絶望しても、どんな状態に陥っても、ただおひとり、主イエス・キリストには絶望しない。神の救いに対しては絶望しない、絶望することはない! キリストのところに行きさえすれば、そこにこそ真の救いがあり、絶望は希望に変えられるのです。そのことを、このマグダラのマリヤを通して見ることができるのです。


(2)ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ

 執事と言うのは、その家の財産、その他全般を任せられている人。特にヘロデの執事ということはかなりの高官でしょう。そんな高い地位にある人の妻が、どうしてイエスさまの一団と行動を共にするようになったのか、これもよくわからない。ただ「悪霊や病気を直していただいた女たち」とあることから、この女性も、何か重い病気を持っていて、その具体的な悩みをイエスさまに訴えて、いやして頂いたのでしょう。 高官の妻と言う立場上、普通なら、「ああ救われた、良かった。ありがとうございます。」といって帰って行ったことでしょう。けれども、深刻な病、あるいは問題を抱えていて、もうダメだと思って死をも覚悟していたかもしれない自分が、イエスさまによっていやされ、救われた、そして、言葉にできないほどの感謝と喜びにあふれた。 だから、このイエスさまから、もう離れることはできない、ついて行きたい、イエスさまを慕って、この一団の仲間になんとしても加わりたい! そうして、「自分の財産をもって仕えている」とあるように、惜しむことなく捧げることによって仕えていった女性だったのです。         


(3)スザンナと大ぜいの女性たち

 スザンナ、この名前の女性は、ここにしか出てこない。考えられるのは、すでにキリストの仲間たちからは、もうこの女性はよく知られていた。それほどに、キリストの愛を頂いて、その愛の中に喜んで仕えていた存在であったということなのでしょう。 

 そして、「そのほか大ぜいの女たち」がいました。どんな人たちがいたのかは、マルコ15章にある程度、出てきます。イエスさまが十字架に架けられた時に、はるかにこれを見ていた女性たちがいた、とあります。 マルコの福音書15:40-41


  また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。


サロメとは12使徒のヤコブとヨハネの母と言われています。この二人の息子は網を捨て、仕事を捨ててイエスさまに従って行ってしいました。それは家族にとっては大きな痛手であったことでしょう。 だから、家族の者たちは、特に母親はイエスさまを憎み、イエスさまを恨むようになったでしょう。どうしてこんな事になってしまったのかと、悲嘆にくれ、涙したかもしれません。小ヤコブの母にも同じようなことが言えるでしょう。しかし、今は、そのイエスさまの一団に喜びをもって仕える者となったのです。かつての悲しみ・嘆きは、喜び・賛美に変えられたのです。 

 だれでもイエス・キリストにあっては、悲しみが喜びに変えられる時が必ず来るのです!

そのことを、今日、私たちはこの女性たちが、喜びをもって主に仕える姿によって見ることができるのです。 イエスさまに仕えることが嬉しくてたまらない、となるのです。  

 彼らはキリストの愛の中にあって、その喜びと感謝を働きにおいて表していきました。しかも、その働きは喜びでした。仕えることが喜びでした。感謝な事でした。  

 自分に注がれた神の愛、与えられた恵み、この喜びを表していく働き、奉仕することが感謝の現れなのです。 彼女たちの中には、財産や、捧げるべき持ち物のない者もいたでしょう。でも、卑屈にならず、体を動かして主の働きに参加していったのです。 

 ここにキリストの体なる教会のそれぞれの働きにおける一致を見るのです! 

 みんなが同じ働きをするのでなく、それぞれに与えられた、相応しい働きを、喜んで精一杯神と教会と人に仕えていく。これが、健全なクリスチャンの姿であり、そして、教会のかしらであるイエスさまが喜ばれる事なのです。

 神さまは良いお方ですから、最善以下をなさらないお方なのだ!ということを忘れてはならないのです。 

 この神様に、喜びをもって、精一杯、感謝しつつ、献げもの、献げる心をもって、仕えていく歩みをさせて頂きましょう!

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