十字架こそがしるし
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 8月17日
- 読了時間: 6分
更新日:8月17日
2025,8,17 ルカの福音書11章29-32節
今日の聖書箇所は、イエスさまが「しるし」を求める人たちに対して語った内容です。29節から見ていきましょう。
さて、群集の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
イエスさまの時代認識は、「この時代は悪い時代です」と捉えています。悪い時代は、人々はしるしを求める、と語るのです。 目に見えるものを追い求め、目に見えるものしか信じない、そんな時代だと言っているのでしょう。 そういう時代にあって、イエスさまは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と言うのです。 「ヨナのしる」とはなんでしょう? 旧約聖書のヨナ書から、概略を見てみましょう。
ヨナは、神さまからニネベに行って、悪のはびこっているニネベの町は滅ぼす、と預言せよとの命令を受けるのですが、彼はそれを嫌がり、反対方向のタルシシュ行きの船に乗って逃げるのです。しかし、神の怒りが降り、大嵐となり、船は今にも波にのまれそうになってしまうのです。最終的に、ヨナが神に背いたためだとわかり、彼は海に投げ込まれ嵐は治まったのです。
ヨナはどうなったかと言うと、「主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませた」とあり、彼はその魚の腹の中で、悔い改め、主に祈ったのでした。 「ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」とあり、主は、魚に命じて、ヨナを陸に吐き出させました。そして、神さまは、再度、ニネベに行って、神のことばを語るように命じるのです。 今度は、命じられたとおり、ニネベに行き、「あと40日たつと、ニネベは滅ぼされる」と語って町を歩き回りました。 すると、ニネベの人びとは、神を信じ、悔い改め、王までもが民に、悔い改めて、断食して、悪の道から立ち返るように命令を発するのです。 神は、この国の上の者から下の者まですべての者が、悔い改め、神の前にへりくだった姿をご覧になり、下そうとした裁きを思い直されたのです。
尾山令仁先生は、この大魚は鯨であろうと推測しています。先生は、著書の中でこんな話を紹介しています。
ある時、英国の船乗りが誤って海に落ち、その後捕らえた鯨のお腹の中から、その船員が出てきて、息を吹き返したという出来事があった。鯨のお腹に入って助かり、生き返ったという事例から、ヨナを飲み込んだのは、鯨ではないだろうかと、考えた。 ところで、この出来事には、まだ続きがあって、この船員は、助かることは助かったのだが、鯨のお腹の中に、かなりの時間いたために、鯨の胃液のため、肌が真っ白になっていた。
もしも、ヨナも同様に肌が真っ白になっていたとしたら、ニネベでの宣教の際に、そのことについても語っていたかもしれない。神の命令に従わなかったために、自分は、3日間も大魚のお腹の中にいなければならず、この真っ白い肌は、そのしるしだと言ったのではないだろうか。
そういう可能性もあるかもしれません。しかし、聖書にはそういう記述はありません。
しかし、聖書はニネベの人びとは、ヨナの語る神のことばを聞き、信じ、悔い改めた、と記すのです。
31節には、南の女王が出てきます。
南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。
この南の女王というのは、Ⅰ列王記10:1-10にでてくる「シェバの女王」のことです。
「地の果てから」とあるように、ユダヤから南の果て、アラビア半島の南端、今のイエメンという国あたり、と言われています(エチオピアという説もあり)。 そこから、わざわざ、ソロモンの名声を聞いてやってきたのです。 偉大な国を作り上げ、その知恵はそれまでの誰よりも優れている、と伝え聞いて、ソロモンのもとに来ました。 知恵を聞くためにやって来たのです! そして、たくさんの質問を持ってやってきた女王に対して、答えられないものはひとつもありませんでした。
聞いていたうわさよりも、はるかにまさったソロモンの知恵の言葉を聞いて、この女王は、「息を飲むほどであった」のです。 恐らく、ソロモンは知恵を用いて神のことばを語り、何より唯一、真の神の偉大さ、すばらしさを語り、女王もソロモンの語る、神のことばを聞いて、信じて、喜んで帰っていったのではないでしょうか。
南の女王も、ニネベの人びとも、ソロモンやヨナが語った、神のことばを聞いて、信じ、受け入れました。彼らは、しるしを見せろとは言わなかったのです!
ニネベの人びとは、ヨナの体験と神から与えられた警告の言葉を、まさしく神のことばとして、謙遜に聞き、受け止め、どうすべきかを決断し、行なったのです!
南の女王も、神の知恵の言葉の前に、へりくだって、聞き、受け入れて、喜んで、帰っていきました!
この大切な神のことばを語って、悔い改めに導いたヨナや、この人以上に知恵のある者はいないと言われたソロモンでしたが、イエスさまは、31.32節で
しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
と語るのです! ヨナもソロモンも神から与えられたものを、神の命に従って、語った者ですが、イエスさまは、ご自身が神であり、神のことばそのものだと、おっしゃっているのです。 イエスさまご自身が「しるし」であるにも関わらず、高慢な者、信じたくないものは、奇跡的なしるしを見せろ、と言うのです。
12弟子のひとりである、トマスでさえ、よみがえったイエスさまを見なければ、復活したなどとは信じられない、と言いました。 ヨハネ福音書20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。
彼もしるしが見たかった!人は、みんな目に見えるものが欲しいのです。そんなトマスにイエスさまは、現れて下さって、手の釘跡、槍で刺されたわき腹をお見せになるのです。26-27、29節
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
私たちの信仰は、見たから信じたのではありませんね。イエスさまを肉眼で見たことある人いますか? いないんですよ へブル人への手紙11:1
信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
今も昔も「しるしを見せろ」「神がいるなら見せてみろ」という人が必ずいます。 私の中学時代のクラスメートも同様のことを言っていました。彼女は、理屈っぽい、論理的に納得できないと、収まらない人でした。
私たちが求めるべきは、キリストの十字架と復活に表された、神の救いの恵みです。 それこそが最大のしるしであって、求めるべきものは、キリストご自身と「神のことば」です。
神の前にへりくだって、信じない者にならないで、信じる者として歩ませていただきましょう。
見ずに信じる者は幸いです