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努力して狭い門から

更新日:5月18日

 

2026,5,17 ルカの福音書13章22-24節

 

 

 今日見ていく聖書の箇所は、一般的にもよく使われている「狭き門」と言う言葉をイエスさまが語られたところです。まずは、ルカ13章22節から見ていきましょう。

 

 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。

 

特別なことが書かれているように感じませんが、注目すべきは「エルサレムへの旅を続けられた」とある部分です。別に旅行を楽しんでいたわけではないのです。 エルサレムへの旅の目的は、私たち罪人を救うために、十字架にかかって死ぬため。また、ご自分が神の子、救い主であることを示すために復活するためなのです。      

 その旅の途中で、ある人がイエスさまに質問をします。23節

 

  すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」という人があった。

 

この人は、いつもイエスさまの周りにいて、イエスさまのお話をよく聞いていた人だったのでしょう。そして、よく聞いていたからこそ、「救われる者は少ないのですか」と質問したのだと思います。 その質問に対してイエスさまは直接答えてはおられません。

 

 イエスさまの宣教開始の第一声はマルコの福音書1:15に

 

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

とあります。「福音を信じなさい」 これが宣教活動の中心なのです。 牧師、伝道者は、何よりもこれを第一の使命として働いているわけです。

 イエスさまがそう語っているのに、この質問者は「救い」という人間にとって、そして、自分にとっても、最も重要なことを客観視して語っているのです! 自分のこととして聞いていない! 

 イエスさまの語られることはよく聞いている。よくわかった。素晴らしい話だ。感動した。でも、そこで終わっているのです!

 私たちも聖書を読むとき、メッセージを聞くとき、聖書をよりを深く知ることができた、というだけではなく、これは私に語られている言葉として、メッセージとして受け止め、従っていくことが、信仰生活の中で大切なことであり、霊的な成長のためには、重要なことであることを覚えて頂きたいと思います。

 

 そこでイエスさまは、24節(23節の最後から)でこう語られました。

 

 イエスは、人々に言われた。「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」

 

 「狭い門」と言う言葉が出てきました。

私は中学時代、すでに教会に行っていましたから、この「狭き門」と言う言葉が心に響いていました。 そして、卒業式が近くなると、友だち同士でお互いにサイン帳に何か言葉を書く、なんてことがあって、そこにマタイ7:13-14(口語訳)の言葉を、偉そうに書いた覚えがあります。

 

 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

 

 また、中学2年の時は、学校の図書館でアンドレ・ジイドの「狭き門」という小説が目に入ったので、借りて読んだのですが、よくわかりませんでした。大人になって調べたら、悲劇の純愛小説でした。中2の私にはまだ無理な内容だったみたいです。内容の記憶は全くありません!

 

 マタイ福音書もルカ福音書も「狭い門からはいれ」と語っています。

 私たちの前には「狭い門」とその反対の「広い門」があるのです。門は2つしかないのですか? 中間のちょうどいい道はないのですか? いいえ、2つしかないのです!

 私たちはこの広い門と狭い門の2つの門の前で、常に決断を迫られているのです。

 

「狭い門から入る決断をしなさい」とイエスさまは言われるのです! 広い門から入るのには決断はいりません。何の決断もせずに、ただ生きていく時、みんな一緒だから大丈夫だろう、どこに行くのかもわからないけど、広くて、楽だからいいんじゃないか。と言って多くの人は広い門を通っていくのです。

 

 しかし、私たちは生まれてから今まで、多くの小さな、時には大きな決断をしてここまで来たのではないでしょうか! 人生のターニングポイントと言われる時の決断もあったことでしょう。 

 私は、小3の時、担任の先生の家での(キリスト)子ども会に行く決断をしました。その時は、そんなに大きな決断をしたとは思っていませんでしたが、今思うと、そのことがその後の私の人生を方向づけたと言っても過言ではないのです。そこから始まった歩みが、やがて40年後、牧師としての働きへとつながっていったのです。 

 

 私たちが今、この礼拝に集って、ここにいる、ということは多くの決断の結果であり、もしも、過去のあの時、別の決断をしていたら、今ここにはいないかもしれません。

 そして、これからも毎日のように、自分の前に置かれた「狭い門」と「広い門」とのどちらかを選び、決断をしていくのです。 困難な道? 安易な道? どちらを選びますか?と迫られる!

 

 「努力して狭い門から入れ」とイエスさまは語るのです。広い門から入るときは、努力はいらないのです。 ここで使われている「努力して」のもともとの意味は「苦闘して」。ですから、狭い門から入るには、努力が、苦闘することが必要だというのです。

 イエスさまはこうやって2つの道を示した上で、私たちに狭い門を選びなさい、狭い道を選びなさいと言うのです。

 なぜなら、この門の先に、この道の先に何があるのかをご存じだからなのです。広い門、広い道の先には滅びがあることを、そして、狭い門、狭い道の先には、いのちがあることをご存じだから。だから、ハッキリと最初からそれを私たちに示すのです。たとえそれがどんなに楽しく愉快であっても、そのゴールが滅びであるなら、それは恐怖への入口、恐怖への道となるのです。 

 「滅び」それは直訳すると、失われること、あるべきところにない、いるべきところからはずれている。何より、羊飼いであるイエスキリストから離れて迷っている。迷い子になっている状態!  

最終的には、地獄に至るということを示しているのです! 

 

 イエスさまは地獄があるからこそ、死後に裁きがあるからこそ、愛する人々が、そんな裁きを受けてほしくない、地獄に行ってほしくないので、なんと、神であるお方が、人となってこの世界に飛び込んできて、あの恐怖の十字架に、ご自分の意志で、かかって、死んでくださったのです!

 このイエスキリストを信じることこそ、このイエスキリストと生きていくことこそ、狭い門をくぐり、狭い道を生きるということなのです。 

 

 イエスさまはおっしゃいました「わたしが門です。わたしをくぐらなければ救われません。」「わたしが道なのです。わたしを通してでなければだれも父の身元に、天国に行くことはできません。」イエスキリストという門を、道を通らなければ、いのちはない、救いはない、罪の赦しはない、永遠のいのちは頂けない、天国には行けないのです! 

 

 狭い門とは、イエスキリストご自身! 狭い道とは、イエスキリストご自身! 

 

「言われていることはわかりますが、私にはとてもそのように生きることはできません。無理です、私は狭い門には入れません。」・・・しかし、イエスさまは、そんなことはわかっているよ。だからわたしが門であり道だから、わたしの所に来なさい、と招いておられるのです。 

 

 ある探検家がアフリカに探検に行きました。そして、現地のガイドを雇いました。しかし、そのガイドは、来る日も来る日も、道なき道をただ進むだけでした。とうとう探検家はイライラして、「一体どこまで歩くんだね?どこへ行くのか、はっきり説明してくれ」と言いました。するとガイドは「このジャングルには道がないのです。私が道なのです。私について来てください。」

 

 この人生という旅、私たちは「わたしが道です」とおっしゃるイエスさまこそ、私たちがついていくべき道であり、確かなガイドであり、道そのものであることを信じて歩んで行きたいと思います。

 「この方以外には救いはないのです!」

 

 日本人は「みんな」と言う言葉に弱い。みんなと一緒に行きたい国民性です。数年前、こんなギャグがはやりました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」 とんでもない! みんなが危険な目に遭うのです!

 あなたは、どちらを選びますか? みんなと一緒に、楽で、楽しい広い門ですか? それとも、 困難だけど、 いのちに至る狭い門ですか? 

 みんなと違うけれど、キリストについていく道を決断して、選んでいきましょう。それは、いのちに至るだから!

 

 

 
 

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