わたしについて来なさい
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 3 日前
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更新日:1 日前
2026.5.3 マルコの福音書1章14~20節
イエスさまは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられて、その後、御霊によって荒野に導かれ、40日間サタンの誘惑を受けられました。
マルコ福音書にはありませんが、マタイ福音書ではサタンの誘惑を、み言葉によって退け、サタンはイエスさまから離れていった、とあります。
今日の聖書箇所は、その後、イエスさまの伝道活動のはじまりが記されています。14節
ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
「ヨハネが捕えられて後、・・・」 ルカ3:18~20には、ヨハネが国主ヘロデの不品行を責めたがゆえに牢に入れられてしまう、とあります。 ヨハネは力強く、大胆に、人々の罪を指摘し、悔い改めを迫りましたが、それは、国主ヘロデも例外ではなかったのです。 しかし、ヘロデの不興を買い、捕えられ、やがてヨハネは首をはねられ、彼の大胆にして、力強い宣教は終わってしまいました。
ところが、ヨハネの宣教の叫びをイエスさまが引き継ぐことになるのです。
マタイ3:2でヨハネは
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
と言って、神の道を説きました。 そして、マタイ4:17では、イエスさまも同じ言葉で宣教を開始されたのです。 失敗しても、挫折したように見えても、神の福音の言葉は力をもって働かれるのです! 15節
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」
「神の国は近くなった」とは、神ご自身が私たちの近くに来てくださった、ということ!
神の子キリストが、人間となって私たちのところにきてくださり、私たちと同じようにバプテスマを受け、荒野の経験―試みに遭い、弱さを覚え、悲しみ、辛さ、誘惑、それら全部―をされた! だからこそ、人間として、私たちのことを理解でき、罪の悲しみ、痛みをわかってくださる、知っていてくださるお方=このお方が私たちのすぐ近くに来て下さった、これが福音なのです!
しかし、サタンも必死になって働いています。人々が「神に心を向けさせないようにしている」のです。人生の悪い面、困難な面、大変な面、否定的な面ばかりを見せるのです。 経済的な誘惑だったり、人間関係の問題だったり、周りの人から良く見られたいと言う思いに駆り立てたり。 あるいは自分の弱さに目を向けさせて、失望させたり、 自分は愛されていない、と思わせたりして神様に目を向けさせないようにするのが、サタンの働きなのです。
では、すぐ近くにある、神ご自身を自分のものにするためにはどうすればいいのでしょう?
「悔い改めて、福音を信じる」こと!
神は私のような者をも愛して下さっている、と信じること。 これが福音、Good Newsなのです!
主イエスは同時に、弟子づくりをもしていかれ、そのためにも力を注がれました。そばにおいて訓練し、育て、そして遣わすのです。 主はガリラヤ湖のほとりで、「わたしについて来なさい」と声をかけて、2組の兄弟を召されました。
聖書を読むとき、大切なのは、2000年前にユダヤの地で語られたこととして読み過ごしてしまうのではなく、神の言葉として、今、私に語られたものとして受け止めることが大切なのです! 単なる招きではなく、「召し」=命令なのです。
日本でも80年以上前、戦争をしていましたが、当時は国から、召集令状、いわゆる「赤紙」が来ると、決められた部隊に期日までに、絶対に行かねばなりませんでした。こちらの事情に配慮する、などということは全くないのです。
それと同じように、神の言葉は、無条件の服従を要求する命令なのです。「信じなさい」という主は、弟子を召し、私たちを召し、「従いなさい」と言われるのです!
「信じる」ということは「従う」ということ!
信じますけど、従うのは嫌です、これは矛盾であり、あり得ない信仰のあり方です。
主の召しに対して「はい!従います」と決断する者でありたい、と思います。
私が二十歳の時、礼拝か聖会かの最後に、高木輝夫先生が会衆にこう迫りました。「神様はあなたを召しておられます。主の御用のために立ち上がりませんか? 日曜学校の教師として神さまの声を聞いている人はいませんか?・・・教師は無理でも、何か日曜学校のお手伝いならできるという人はいませんか? その人は立ち上がってください!」(・・・手伝いくらいならできるでしょう、クリスチャンなら当然でしょう)と思って立ち上がりました。
そこから、手伝いと思っていたのに、日曜学校の1,2年生の分級を担当することになってしまいました。 そして、それから50年、日曜学校の教師見習いから、ほとんど毎年何らかの形で御言葉を語る奉仕を続けさせていただきました。
それが、どんなに祝福になっているかわかりません。小さな決断を主は受け止めて、導いてくださり、まさに自分でも当時、思ってもみなかった「人間をとる漁師」にさせていただきました。「不思議なこと」としか言えません。
人生の中で選択をするというのは、とても重要なことであり、また重要な選択がいくつかあります。 信仰生活の中で、主に語られたとき、「従うこと」が祝福のカギなのです!
主は「ついて来なさい」と語っておられ、従ったら主が責任をとってくださるのです!
17節
「ついてきなさい、従いなさい」そうしたら「人間をとる漁師にしてあげよう」
との約束! 直接的にはシモン、アンデレに語られた言葉ですが、従う者への約束の言葉でもあります。 ついて行く時、従っていく時、「・・・してあげよう」と言ってくださるのです。 なんと胸、躍る言葉ではないでしょうか!
それぞれの立場で、ついて行く。置かれた場所で、主の召しを受けて、主婦は主婦として、学生は学生として、会社員は会社員として、教師は教師として、医者は医者として自分のためではなく、自分の人生を自分で決めるのではなく、イエス様のために生きていきます。この働きを通して、あなたに従う者としての歩みをしていきます、と決断します。
すると・・主が「・・・してあげよう」と言ってくださるのです! 従って行く時のみ、そこに神の福音が伝えられ、神のわざ、神の栄光を見させてくださるのです。
主イエスの「ついて来なさい」の言葉に対して、彼らの応答はどうであったでしょう?
18節「すぐに・・・従った」 20節「すぐに、・・・ついて行った」
ここで彼らは
信じる者から従う者になっていったのです。
聖書を読み、聖書を学び、説教を熱心に聞く、とても大切なことです。しかし、読み、学び、聞いた御言葉に、どう応答していくか、決断するかということが最も重要なこと! 自分の考えを堅く持っていて、そういう状態で聖書を読んでも、聖書を読むことにはならないのです。
自分の心をニュートラルにして聖書を読み、説教を聴くことによって、自分の考えが変えられ、自分の考えが作られていくのです。 そういう読み方、聞き方が、主についていく、ということなのです。
今日、「わたしについて来なさい」とおっしゃる、その御言葉に真実な思いをもって、心から「はい」と応答したいと思います。そして、そこに幸いな神の『してあげよう』がなされていくのです。
従う時、初めて、私たちは神様の素晴らしい「してあげよう」を体験することができるのです。
今日、心から主の召しに「はい」と答えていく者とさせて頂きましょう。