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公義と神への愛こそ

2025,9,7 ルカの福音書11章42-44節

 

 

 先週は、イエスさまを食事に招いたパリサイ人に対して、外側はきよめるが、内側は貪欲と悪い思いとでいっぱいではないか、持っている物を施すこと、与えることによって、聖い者となりなさい、と痛烈に批判した箇所を見ました。

 ルカの福音書11章は54節まであるのですが、前回見た37節から52節までは、ずっとイエスさまのパリサイ人や律法学者に対する強烈な批判が続いているのです。

 今日はその中から、42-44節までを見ていきたいと思います。まず42節から

 

 だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし十分の一もなおざりにしてはいけません。

 

パリサイ人たちが、外側だけを整えて律法を守っている姿を見せてはいるが、律法の精神である「公義と神への愛」はいい加減にしているではないか、とイエスさまは指摘するのです。 確かに、旧約聖書のマラキ書には収穫物、すなわち収入の十分の一を主の宮に携え来て捧げなさい、とあります。ですから、パリサイ人は厳格にこの規定を守り、ほんの少量の香辛料であるはっかやうん香までも宮に納めることによって、自分たちは、こんなに神さまに忠実に仕えている、立派な信仰者だと自任し、周りの者にも示していたわけです。 

 しかし、そのような十分の一をささげることに熱心になるあまり、律法の中心的な精神「公義(正義)と神への愛」はいい加減になっていたのです。 「公義」と訳しているのは新改訳のみで、その他の4つの聖書訳は「正義」で、2つは「義」となっています。

 正義と訳されている言葉は、「裁き」とか「判断」という意味があります。ということは、「神の判断と神への愛」をなおざりにしている、いい加減にしている、と言っているのです! 「神の判断」と言えば、神の御心ですし、「神への愛」は「神を愛し、隣人を愛すること」なわけです。神の御心である、「全身全霊をもって神を愛し、自分と同じように隣人を愛する」ことをいい加減にして、捧げものに関してはしっかり守っている、自分たちは立派な信仰者だと自負しているパリサイ人よ、あなた方は第一にすべきことを、第一にしていないではないか。と語るのです。   

 私たちはどうでしょうか? 神さまの前に、第一のものを第一とした信仰生活を送っているでしょうか? 神さまを愛し、神さまを第一とした日々を送っているでしょうか? ヨハネの手紙第一5:3

 

神を愛するとは、神の命令を守ることです。

 

とあります。神の命令とは、神のことば、聖書のことばです。クリスチャン生活を真面目に過ごし、信仰熱心な歩みをしている人に、陥りがちな間違いは、自分はきちんと礼拝を守り、献金もちゃんとして、奉仕だってしている、だから大丈夫! と思ってしまうことなのです。

 イエスさまが指摘された、最も大切な律法の精神、聖書の中心的な教え「神を愛し、隣人を愛する」ことがなおざりになり、目に見える形の「行うこと」に心を向けてしまいかねないのです。

 ただ、ここでイエスさまが念を押されたのは、だからと言って、十分の一の捧げものも、なおざりにしてはいけない、という事でした。

 私たちは、神に命を与えられ、生かされ、やがて永遠の御国に導かれる者であることを心から感謝して、第一にすべきこと「神の義と神への愛」を第一にして、また、ささげるべきものをお捧げして、喜んでクリスチャンライフを歩んでいきたいと思います。

 43節

 

 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。

 

これは、彼らは常に人々よりも高い所にいたい、人々の尊敬を得ていたい、別の側面からいうと、人々の評価を気にして、ほめてもらうことによって、自己満足したいパリサイ人に対する批判なわけです。人の評価が気になる人は、神の評価だけでは満足できない人と言えます。けれども、イエスさまの十字架の救いを信じた者に対する神さまの見方は、イザヤ書43:4

 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 

と言ってくださっているのです。これで十分ではないでしょうか。このことが本当にわかっていれば、人の評価がどうであろうと、気にしません。 人の評価が気になるのは、神の評価がどれほどのものであるかが、まだよくわかっていないからだと思います。 

 そういう私自身も、どこかで人の評価を気にしているのではないか? と思わされます。 

 私たちの信じている神さまは、ローマ人への手紙8:32

 

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方

 

なのです! ここまでしてくださった神の愛を、私たちは聖霊によって、いつも心に思い描いていたいと思います。         

 44節

 

わざわいだ。おまえたちは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」

 

当時のイスラエルでは、春になると、墓を石灰で白く塗る習慣があり、それは、エルサレムに巡礼者がやってきて、知らぬうちに墓の上を歩いて、汚れた者とならないようにとの配慮からでした。律法によると、墓に触れた者は、7日間汚れた者になるという事でしたから、せっかく、過越の祭りを祝うためにエルサレムに来たのに、汚れた者になったら大変だ、という配慮からでした。 

 ところが、全部の墓が石灰で白く塗られたわけではなく、そういう墓は、人目につかないので、その上を歩いても、誰もわからず、律法によって汚れた者になってしまうのです。

 それと同じように、パリサイ人たちは、彼らが示している「悪い模範」によって、人々を汚してしまっていると、イエスさまは言われたのです。彼らは、聖書の教えを知っているのに、それと違ったことをしていました。彼らは、当時、立派な人として尊敬もされて、十分の一の献金をし、よく伝道もして、よく祈りましたし、また週に2度の断食をしていました。彼らは、まさに信仰生活における優等生でした。 しかし、心の中を見抜かれるイエスさまは、彼らが、偽善者であることを見抜いておられたのです。さらにひどいことには、彼ら自身が、自分たちの偽善に気づいていなかったということなのです。

 

 私たちは自分がどんな者であったか、どんな者であるのか、それを忘れてはなりません! 神などいないと、常に自己中心の思いで過ごしてきた時もあったでしょう。クリスチャンになってからも、誘惑に陥ってしまったり、聖霊を悲しませたりしたこともあるでしょう。そんな自分であることを、隠さずに、へりくだって、こんな自分ですけど、とそのまま神さまの前に出て、悔い改めるときに、ヨハネの手紙第一1:7にあるように

 

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 

と約束してくださっているのです。

 

このイエスさまの愛と赦しに心から感謝して、高ぶって、人を裁き、見下すのではなく、へりくだって、神と人に仕えていく者とさせていただきましょう。

 
 

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