信仰の働きを全うする
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 4月6日
- 読了時間: 7分
2025.4.6 テサロニケ人への手紙第二1章6~12節
今日は第二テサロニケ1章6節からお読みしましたが、6~10節で、パウロは、人々が抱く根本的な問いに対する、答えを提供します。
それは、なぜこの世には悪があるのか、という問いです。
神が正義の神であるなら、不義や不正に対して、どうして正しいさばきを行なわれないのか、という疑問です。 世の中、あまりにも不条理なことがたくさん起きます。多くの人々は、その不条理に対して、なぜ神は黙っているのか、なぜ、悪者に対して、さばきを行なわないのかとの、根本的な疑問を抱きます。 詩篇の記者が繰り返し神に問う内容です!
「黙っていないでください」「なぜ、遠く離れてお立ちなのですか」と。
そこでパウロは、この問いに対する究極の解決を教えます。 6-7節
つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。
義なる神は正しいさばきをなさる、という真理。苦しめる者には、それにかなう苦しみを神が与えられるという教えです。
だから、ローマ12章19節には、こう書いてあります。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』
ゆえに、私たちは、この真理をもって、第一ペテロ2:23にあるイエスに倣う者とならせていただきたいのです。
「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
主にすべてをゆだねた人の心ほど、安息が保たれていることはありません。この安息を持っているので、人は、悪に対して悪で報いることなく、かえって善をもって報いることができるのです。 ですから、人を赦すということも、不条理を受け入れることではなく、神にすべてをお任せするところから可能となるのです。
人は、自らの弱さのゆえに、こう考えます。 聖書には、今、私たちを苦しめている者が、神によって裁かれ、苦しみが与えられる、とあるから喜び、安心して「神が必ず、復讐してくれるんだ。覚悟しておけよ!」なんて思ってしまう。
『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』と聖書にあるので、間違ってはいないのですが、・・・・。
日本人は忠臣蔵が好きで、それは、不当な扱いに対して、黙っていないでかたきを討つ、そこまでの赤穂浪士の努力と忍耐に喝采をおくる。「ざまあみろ、そんな悪辣なことをしていると、最後はそういう目に遭うのだ」と言う思いを、多くの人が抱き、それが正当な報いだと思っているわけです。 しかし、イエスは何と言っている? マタイ5:44
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
と語る。 そんなことが実際に出来るのか?
それこそが、まさに11節にあるように、「信仰の働き」を全うすることなのです! 聖霊の助けによって「信仰を働かせなければ」、出来得ることではない!
生まれながら持っている力や、それまで身につけた忍耐力・精神力などでは、到底為し得ないことなのです。
『汝の敵を愛せよ』というマーチン・ルーサー・キング牧師の本があります。この本の冒頭で「聖書の中で一番実行が難しい教えだ」とキング牧師は言います。そして、この教えは「理想に過ぎない」「現実のことなどを何もわかっていない愚かなことばである」という批判にさらされてきました。 私たちもまた「聖書はそう言っても、所詮、人間には無理でしょう」と言いやすいですね。「神様がいくらおっしゃっても、自分はそこまで変われません」というのが本心なのではないでしょうか。 「敵を愛するなど、ただの偽善のことばではないか」と言うこともあるでしょう。では「敵を愛しなさい」というイエス様のことばは、偽善者のことばに過ぎないのでしょうか。
イエス様が弟子たちに「あなたの敵を愛しなさい」と言われたということは、「わたしがその生き方を示すから、あなたがたは、わたしの生き方について来なさい」ということです。そして、その言葉通り、イエス様ご自身が、「敵を愛し、自分を憎む者に善を行う」という生き方を示してくださいました。
今、あなたの頭に思い浮かぶ、あなた自身に悪意を向けてくる人がいるでしょうか。到底赦せない人がいて、その人の顔も見たくもないという人がいますでしょうか。
イエス様はご自分の弟子に、敵を愛する生き方を見せてくださいました。十字架にかかり、ご自分の敵のために祈り、敵を愛されました。そして、イエス様の弟子たちは、「敵を愛する」生き方を、イエス様を通して知り、やがて実践していくのです。
6~10節で、苦しみを与えている者には、報いとして苦しみが与えられる、福音に敵対する者は永遠の滅びの刑罰を受ける、とありました。だから、私たちは彼らに対して、滅びを願うことではなくて、今のままでは、やがて主が報復されるから、彼らの救いのために、祈り、愛のわざを為して行け! と受け止めるのが、信仰を働かせる姿勢ではないでしょうか。
やがて来る再臨の時のことを語って来たパウロは、11節で次の祈りをします。
そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
神が、テサロニケの人々を召しにふさわしい者としてくださいますように、と祈っています。この「召しにふさわしい者」とは、前回見た5節にある「神の国にふさわしい者」と共通の内容であり、「聖徒」としての召しであり、もっと具体的には、再臨のときに、天に引き上げられるところの召しであります。
イエスさまは、オリーブ山で、弟子たちに、世の終わりに起こることを話されたとき、最後にこう言われました。ルカ21.:36
「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
やがて起ころうとしていることとは、まさに「主の日」「裁きの日」のこと、これらのことからのがれて、イエスさまの前に立つことができるように、油断せずに祈っていなさい、という命令です。
私たちは、すでに救われて、神の子とされた者です。しかし、だからと言って、私たちがもう何もしなくてもよい、ということではありません。 主が、再び来られる時の用意を、準備をしていなさいと語っているのです。ですから、神が私たちを、召しにふさわしい者にしてくださるように、とパウロは祈っているのです。
最後に、11節後半
また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
ここを詳訳聖書は、
「信仰<すなわち、神の力と知恵といつくしみとに対する絶対の信頼と確信をもって、神に全人格的により頼むこと>の働きをあらゆる点で完成させてくださるように」
ということです。
「信仰の働き」「信仰を働かせる」と何が起こるのか。12節
12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
第一に、主イエスの御名があがめられるのです。私たちひとり一人によって、イエスがあがめられる。イエスこそまこと神であり、罪からの救い主であることが、多くの人に信じられ、受け入れられるようになるのです。
第二に、あなたがたも主にあって栄光を受けるというのです。イエス・キリストを信じた私たちが、日々喜び、祈り、感謝する生活をしていると、私たちの内側から、神さまが 光を、輝きを放ってくださるのです。 信仰を働かせると、具体的には、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実を結ばせてくださるのです!
聖霊の助けによって、信仰の働きを全うさせて頂きましょう。