人間が何者だというので
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 2 日前
- 読了時間: 7分
2025.9.14 ヘブル人への手紙2章5~15節
私たちは、毎日何かを選ぶことを、意識して、あるいは無意識のうちにしていると思います。朝起きたら、歯を磨き、顔を洗います。習慣になっているわけですが、それも厳密に言えば、選んで行動しているわけです。しかし、重要なことを決める、選択するときには、よく考えて、いくつかの選択肢から選んで、行動するのではないでしょうか。今日、教会に行くべきか否か。体調が思わしくないが、この程度なら病院へ行かなくてもいいか? 早めに行った方がいいか? いろいろあるでしょう。
でも、決断、選択する前に、ひと言でも祈って決めることをお勧めします。そういう決め方をぜひ、習慣として身に着けていただきたいと思います。私たちの生活のすべてにおいて、神様を意識して考え、行なうことは、信仰者にとって、とても大事なことでもあり、神の祝福を頂く、大きな信仰上な習慣だと思います。
私たちは、イエスさまの十字架の救いに与かって、感謝と喜びをもって、この救い主イエスさまに従って信仰生活を送っています。へブル人への手紙11:1には、
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」
と信仰についての定義と言える内容が書かれています。しかし、信仰を持っていない人たちは、そんな私たちのことを「何と、無駄なことしてるのだ」「そんな、わけのわからないことを何年も続けて・・・」と言ったり、思ったりしているかもしれません。
真の神さまを知らない、聖書が語る福音がわからない人にとってはそうかもしれませんが、クリスチャンにとっては、信仰をもって歩むことこそが、人生を幸いに生きる道であり、神にも人にも喜ばれ、自らも喜んで歩む人生を送ることができる秘訣なのです。
でも、私たちはまっすぐ歩いていると思っていても、知らず知らずのうちに、それていってしまうものなのです。だから、週に一度礼拝に出て、軌道修正して、また歩み出していくのです。 どのようにして、軌道修正するのですか。
聖書の言葉に耳を傾けるほかにないのです!
ヘブル書は、旧約聖書との関連を重視して書かれているので、当然ながら、旧約聖書からの引用が多くみられるわけです! 6,7、8節は、詩篇8篇からの引用です。
「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」
この聖書箇所は私の忘れられない言葉です。もう40年以上前のことですが、この詩篇8篇を読んだとき、感動で先を読むことができなくなったことがありました。胸がいっぱいになって続けて読み進めることができなくなったことを、昨日のことのように覚えています。 神さまの目から見たら、何の取り柄もない、あってもなくてもいいような、正にゴミやチリのような、無きに等しい存在であるにも拘わらず、心に留めてくださった。顧みてくださった。このことに言いようのない感動を覚えたものでした。
その当時、私は、この6節の「人の子」というのは、私たち人間のことを言っていると理解していました。ですから、私のような者にも、神さまは心に留め、顧みてくださったのだと、理解していたのです。それはそれで、間違いではないのです。 けれども、次に続く7-8節をよく読むと、聖書の記者は、「人の子」という言葉を二重の意味で使っていることがわかるのです。ひとつは、私たち人間を指した使い方、もう一つは、イエス様のことを指した使い方なのです!
イエスさまご自身が、福音書の中で、自分のことをよく「人の子」と語っておられます。旧約聖書からの引用である7-8節は、「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」とあります。み使いよりも低い者となった。それは、神である救い主キリストが、人間としてこの世に来られ、貧しさの中で生活し、私たちを救うために十字架に掛けられ、嘲られ、罵られて、強盗と一緒に処刑されて死なれました。しかし、三日目に復活し、天に昇り、今は神の右に座して、私たちのためにとりなしてくださっているのです! 9節後半には、
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
イエスさまの十字架による救いは、すべての人のためなのです! 誰であっても、どんな人でも、「イエスさまは私の罪を赦すために、私を救うために、身代わりとなって十字架で罰を受け、死んでくださった」と信じて受け入れれば救われるのです! これが福音なのです。 神さまは、天の高い所から「こらー、だめじゃないか!」と言って、罪を指摘し、罰する神ではないのです。
神であるのに、私たちと同じ人間となって、痛み、悲しみ、苦しみ、貧しさ、みんな経験されました。罪は犯さなかったので、私たちの罪を全部引き受けて、身代わりの罰を受けて、私たちを永遠の苦しみ、永遠の刑罰から救ってくださったのです。それが14-15節に示されている結論なのです。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
この15節のことばは、私の心に強烈に突き刺さり、死への恐怖心を粉々に砕いてくれました。 私は、かつては死が恐怖でした。人はなぜ死ぬのだろう、死んだらどうなるのだろう、自分の存在がこの世から、消えてなくなる、そのことを考えると、怖くて、怖くて、どうしようもない、何も手につかない時期がありました。
ある人の墓にこんな句が刻まれていたそうです。
「さりながら 死ぬのはいつも 他人なり」 死はいつも他人事で、自分とは関係がない、あるいは自分のこととしては考えたくない、考えなかった、と言うことでしょうか。
人間はなぜ死が恐怖なのかというと、裁きがあることを感じているからなのです。それを意識させるのが、14節後半にある
「悪魔という死の力を持つ者」
とある悪魔なのです。悪魔のもともとの意味は「訴える者」なので、「お前は罪人だ、汚れた思いを持ち、人をねたみ、憎む。そんなお前は罪人だ、罪の結果は死だ。死の刑罰を受けるべき者なのだ!」と。
その通りなのです。ひと言も反論できないのです。 しかし、イエスさまの十字架は私のためだ、と悔い改めて信じるとき、罪は全く赦されて、義なる者、聖なる者とされて、罪から救われるのです。悪魔はもう訴える口実がなくなるのです。訴えても、私は主の十字架によって罪なき者とされている、もはや、死は恐怖ではなく、永遠への入口に変わったのだ!と宣言できる、死に支配されない者とされたのです。
ですから悪魔は、そうさせまいとして、イエス様の救い主としての働きを阻止しようと、その誕生から最後まで、絶えず攻撃をし続けたわけです。生まれてすぐ、同年代の近隣の男の赤ちゃんはすべて王の命令によって、殺されました。 宣教を始めてからは、弟子に十字架を避けるように言わせたり、あるいは、イエスさまを亡き者にしようと、指導者の妬みにつけ込み、群衆をあおって、ついには十字架の死に至らしめました。
そこで、悪魔は勝利したと思ったでしょうが、なんとイエスさまは3日目によみがえって死に打ち勝ちました。 悪魔の力である死を打ち破られたのです!
私たちがイエスさまによって頂いている救いの恵みは、なんと素晴らしいものなのでしょうか! この地上に生きている限り、明確な生きる目的が与えられ、この地上の生涯を終えた先には、永遠の神の国に導き入れられる! これ以上の恵みはありません!
しかし、私たちが現実に生きている限り、様々な問題、困難、思い通りにいかないことがあるでしょう。真の神さまを信じ、従って歩んでいるのに、なぜ、神さまはこんな試練に遭わせるのですか? と言いたくなることがあるでしょう。 それは、私たちだけではなく、昔の信仰者も同じでした。 多くの苦しみを経験した、詩篇の記者はこう記しました。詩篇119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
苦しみの時、私たちは祈るのです。そして、神のことばを待ち望むのです。今まで以上に、神さまに頼るのです。 神さまは、ご自分を頼る者に対して、必ず、ふさわしい道を示し、
導いてくださるお方なのです!
このお方を心から信じ、お頼りして歩んでいきましょう!