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人をさばくな

2024.9.1 ルカの福音書6章35-38節

 

 

(1)削って作られるスペアキー   

 しばらく前に、預かっている息子の車のキーをなくしてしまいました。まずい!と思ってもう一つだけ残っていたキーをもって、万が一のためにスペアキーを作ることにして鍵屋さんに行きました。 みなさんは合鍵作りを見たことがありますか? 本物の方を万力のような物にはさんで、スペアになる方のカギを向こう側にはさんで、本物の形に沿って、電動ヤスリのようなものでスペアの方を丁寧に、慎重に削っていくんですね。 まあ、だいたいこんなもんでいいか、何てことしたら、使い物にならない! ピッタリ、同じ形に削られなければ、いくら見栄えが良くても、本来の目的のためには、用をなさない!

 みなさん、神さまは私たちを用いたいと思っておられるのです! しかし、私たちが自分の形のまま、自分が思った通りに、自分が願った通りに生きたい、自分を生かしたい! と思っている人を神さまは用いることはできないのです! 主に喜ばれる、主の望まれる形に削られなければ、恵みあふれる祝福の世界を経験することはできないのです!

 間違えないで頂きたいのですが、救われるためには、ただ信じるだけ!良い行いをすることも、修養、努力することも全く必要ありません。信じるだけで、救われ、罪赦され、永遠の命が頂けます。しかし、クリスチャンとして祝福された人生を歩みたければ、どうしたらいいのか考えなければなりません!

                                                  

(2)人生を変える4つのカギ   

 米国のカリフォルニアに、チャーチ オン ザ ウエイ という素晴らしい教会があります。そこの牧師は、この教会でもよく歌われる「マジェスティ、神の小羊イエスに」というプレイズソングを作ったジャック・ヘイフォードという方です。この先生が「The Key to Everything」(すべてを開けることのできるカギ)という書物をお書きになりました。その中で、人生を変える4つのカギということを言っておられます。それが今日の聖書箇所のルカの福音書6章37-38節なのです。

 

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。

人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。

 

①   さばくな ②人を罪に定めるな ③赦しなさい ④与えなさい これは、前回もお語りしたように、イエスさましかでき得ないことなのです。 しかし、主に喜ばれたい、主の望むような者になりたい、との願いをもって、祈っていったら、それは主のみこころですから、神が、その人の出っ張った所を削り、突き出た角をへし折るようにして、神に従えない自分を誇示したい思いを取り除いてくださるのです。痛みは伴うかも知れません。プライドが傷つけられるかもしれません。けれども、神さまは、あなたの自我を砕き、高ぶりをへりくだらせ、持てる力を全く無力にして、もう自分には何もない! その事をはっきりと覚えさせて、そこから、心の底から、もう神にお頼りするしかない! というところまで追い込まれるのです。そこまで行った時に、神はあなたを自由に用いて、人を裁かず、罪に定めず、赦し、与える者と変えてくださるのです!

 先ほどのジャック・ヘイフォード先生は、ある時もう赦せない、裁かずにはいられないという経験をされたそうです。 ある夜、暴走族の若者たちが12台の車で庭に入って来て、庭を荒らしまわり、ゴミを散乱させていったのだそうです。翌朝、先生は、ゴミ袋をもって、ぶつぶつ文句を言いながら、散らかったゴミを集めていた時、ルカ6:27-28の

 

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

 

それに加えて今日聖書箇所の「与えなさい」という言葉が示されたそうです。怒っている自分を主に捧げた、怒りを主に背負ってもらったということなのでしょうか。いつのまにか、主と同じようにあわれみ深い自分になっていることに驚いたと言い、行き場のない若者たちをあわれむ思いに変えられたと、証しておられます。     

 

(3)キリストはさばかず      

 聖書は、イエス・キリストはさばくために来られたのではない、ということを繰り返し語っています。ヨハネ3:17には

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

とあり、またヨハネ8:15にはイエスさまご自身が

 

 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。

 

と語っておられます。 具体的には、ヨハネ福音書8章に、当時の律法によれば、死罪にあたるような者に対しても、裁くことをしないイエスさまの姿を見ることがでます。

 姦淫の現場で捕らえられた罪の女、モーセの律法によれば、石を打ち付けられての死罪にあたる罪人。その女をユダヤ人たちがイエスさまの所に連れて来て、どう処分するかを迫りました。その時イエスさまは、

 

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 

と言われたのです。 この言葉の前に誰一人、自分を罪なしと言える者はいませんでした! そして、この女を裁き、石打にしようとしていた者たちをその場から、去って行くしかないようにされたのです。 この罪ある女、姦淫の罪を犯した女をイエスさまはさばかれませんでした! それだけでなく、ユダヤ人がこの女をどうするのだと、イエスさまに迫った時、最初は何も答えずに、そこにうずくまっていました。あたかも自分も罪ある者として責められているかのごとくに。 イエスさまは、そのようにさばかれる者の側に立ってくださるお方なのです。ヨハネ8:9-11を見てみましょう。

 

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」

 

本来、罪人を罰しないということはあり得ないこと! しかしイエスさまは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。それはイエスさまご自身が、この女をはじめとするすべての罪人のために罰を受けて、身代わりとなって十字架で死ぬ、それ故に言える言葉だったのです! 

 

 さばかなければ、自ずと、罪に定めず、赦すことになります! 愛と赦しは、キリスト教信仰の中心! 神が十字架によって愛を示して、私たちの罪の赦しが成就しました! 私たちが人を赦すことができるのは、赦せとイエスさまが命じておられるのは、エペソ4:32にあるように

 

神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

 

また、同じようにコロサイ3:13で

 

互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 

私たちが、キリストによってすでに赦して頂いているのだから、 パウロが告白しているように、「私は罪人のかしらである」こんな私のような者を赦してくださっているのだから、なぜ私が人を赦せないことがあろうか、ということなのです。

 私たちは聖霊によって、このことを強く、明確に覚えさせられ、思い起こさせて頂きたいと思います。そして、裁かず、罪に定めず、赦し、与えることにより祝福された人生を歩んで行きましょう。 

                       

 

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