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人として来られたキリスト

2024.3.24早朝 ヨハネの手紙第一4:1-6


(1)にせ預言者に惑わされるな

 今日の箇所の前後の文脈は、「互いに愛し合う」という内容を中心に記しています。その中で、突然のように「霊を見分ける」ことについて語り出しています。 不自然な感じですが、しかし、ヨハネにとっては、「そうだ、この大事なことを忘れてはいけない」と思い、前後関係も無視して書き綴ったのでしょう。 なぜでしょうか? それは、この頃、偽預言者、偽教師が現れて信徒を惑わしていたからなのです。 1節「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」とあります。 預言者というのは、神から示された言葉を伝える者であり、自分の考えや思想を語るのではありません。第1コリント12章3節には「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」とあるように、預言者は聖霊によって、真理を語り、人々を導くのです。 反対に、偽預言者はどうかと言うと、聖霊によって語るのではなく、悪霊によるのであって、巧妙に真理を隠し、人々が、受け入れやすい、喜ばれるようなことのみを語って、真の神から引き離そうとするのです。まさに、3節の「反キリストの霊」、6節の「偽りの霊」の働きなのです。その偽預言者が現れる、ということが、福音書にも書簡にも黙示録にも記されています。1箇所だけ、イエスさまが語られた箇所を開いてみましょう。マタイ24章24節「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」 彼らに惑わされないためには、どうすればいいのでしょうか? イエス様は悪魔の誘惑を「みことば」を用いて退けました。私たち聖書信仰に立つ者は「御言葉を正しく理解する」ことが、ものすごく重要なことなのです! そのためには、熱心に聖書研究をしたり注解書を調べたりするのがいいのでしょうか? それも無駄なことではないでしょう。 しかし、最も大切なことは、礼拝や集会に出席し、心から神様を賛美し、感謝をささげ、そして語られるメッセーッジに耳と心を傾けることなのです!!

それが積み重ねられていく中で、「神からの霊、真理の霊」に満たされ続け、それによって、反キリストの霊、偽りの霊を見分けることができるのです。 いつも本物に触れていれば、偽物が混ざったときに、違いがわかるという事なのです!


(2)人となってくださったキリストこそ

 2節に、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」とあります。「神が人となって私たちのところに来てくださった」と、強調しているわけですが、その背景には、当時、ギリシャ哲学の影響を受けた、キリスト教のグノーシス派が教会の中に入り込んで来ていたからなのです。彼らは、霊は永遠的で神聖であるが、肉体は世的で、低俗である、と考え、キリストは神の子であり、救い主であるのだから、そんなお方が低俗で汚れた肉体を取られるはずがない。彼は人間になられたのではなく、イエスの肉体を借りて人間として現れたのである。とか、イエスは公の生涯の間、一時的にキリストの霊がイエスの中に入られたが、十字架につく直前にキリストの霊はイエスから離れた、などと言って、キリストの人間性と、歴史的な事実を否定し、十字架の贖いの御業そのものが否定された、1世紀の教会が直面した異端であったのです。

 ヨハネはそのことに対して、「そうではない!キリストは人としてお生まれ下さったのだ、その事を告白しない、語らない、否定する者に、神の霊が働いているわけがない、断じて神が遣わした者ではない」と言い切っているのです。「人として」を「生身の人間として」と訳している聖書もあります! 神が「生身の人間として来られ」て、罪を犯さずに生きられたからこそ、私たちの罪をすべて背負って、身代わりに罰を受けてくださり、私たちに罪の赦しという、神の恵みを与えることができたのです。これが聖書が示す十字架信仰なのです!

 

 イエスがエリコの町の取税人ザアカイの家に入って、客となられました。ユダヤ人にとって、取税人は罪人と同義語、人々はイエスに失望し、なぜ、あんな薄汚い罪人の家に行くのだ、と思う。しかし、イエスはザアカイを救うためには、彼の家に入らねばならなかったのです! 町中の嫌われ者、ザアカイと同じ立場、同じ状況に自分を置き、イエス自身も町中の者から嫌われることを甘んじて受ける、そうする事によってザアカイに救いをもたらしたのです。それゆえ「ザアカイは大喜びでイエスを迎えた」のです。 こんな罪人の、嫌われ者の家に来てくださる、自分と同じようになってくださる、すぐ近くに来て親しく接してくださるお方、これが「人となられた救い主キリスト」の姿なのです。

イエス・キリストは、私のような者を、罪と死の恐怖と不安から救い出すために、

神であるのに人となって来てくださったのです。 

これほど大きな喜び、感謝なことではないでしょう。

ザアカイの気持ちがお解かりになるでしょう!

このお方に心からの感謝をもって仕え、従っていきましょう!


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