2025,2,16 テサロニケ人への第一の手紙5章1~11節
(1) 主の日とは
今日の聖書箇所は、直前の4章の最後から連続した内容であり、キリストの再臨について語っています。そこには、キリストが再び来られるとき、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている者が、一挙に引き上げられて、空中で主にお会いする、ということが書かれていました。そして、5章に入るのですが、1節
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
ここで、「それらがいつなのか、またどういう時か」と書いてありますが、まさに「キリストが再びおいでになる時」であり、死者の復活、携挙を指しているわけです。2節にはこうあります。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
「主の日」という言葉が出てきました。それは、ほとんどの場合、神がこの地上をさばかれる時を意味しているのです。 神は、地上にご自分の怒りを下される時を定めておられることが、旧約の預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどが何度も語っています。「主の日」は、「残酷な日」「(主が)罪人たちをそこから根絶やしにする」「諸国の民の終わりの時」とあり、
新約聖書でも、パウロやペテロが、「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」とか「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」と書いています。
このように、「主の日」について、聖書は全体に渡って示しているのです。それは、主の裁きの日である、という事を私たちは、忘れてはならないと思います。
ノアの時代、地上は水によってさばきを受けました。そして、ソドムとゴモラは、火と硫黄によってさばきを受けました。このように、地上に下される神のさばきがあり、それが今にでも下るという認識を、当時のユダヤ人たちは抱いていましたし、またクリスチャンたちも抱いていました。
私たちも聖書を通して語られている、いわゆる終末・終末論というものを正しく理解しておくことは重要であり大切なことだと思います。
これからの世界はどうなっていくのか、「世の終わり」について、聖書は何と言っているのか、そこから、私たち救いに与った者は、どう生きていくべきかということを聖書を通して、明確にされていくことが大切なのです。
(2)その日は突然に
パウロは、この主の日が「夜中の盗人のように来る」と言っています。そして、どのように暗やみの中で、盗人のように来られるかが、3節に書かれています。
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産み苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
暗やみというのは、人々の目が見えなくされて、盲目状態になっている状態です。平和ではないのに、「平和」だと言い、「安全」ではないのに安全であると言います。これは、預言者エレミヤが、(エレミヤ6:13-14で)イスラエルの民に対して叫んだ言葉です。
自分たちは安全である、と思っている時にこそ、気をつけなければならないと聖書は私たちに警告しているのです。
世界を見渡したときに、すでに終わりの時の前兆を、至るところで見ることができます。前世紀に起こった二つの世界大戦、歴史上前例を見ない地震や飢饉、現在の世界的な異常気象、さらに、クリスチャンの殉教数は、初代教会以降の教会史を見ても、もっとも多いと言われています。
そして、キリスト教会においても、聖書の言葉がそのまま語られず、信仰とは関係のないことが語られています。このような状態になっているのにも関わらず、私たちは「平和だ、安全だ」と言えるのでしょうか? 私たちは大丈夫だ、と思っているときこそが、もっとも危険なのだ、ということを聖書は示しているのです。
(3)信じる者の幸い
このように、「主の日」が定められており、これはとてつもなく恐ろしい日だ、と聖書は語ります。 しかし、パウロは、次に励ましのことばを与えます。それは、クリスチャンは、この主の日、主の裁きの日を通らなくてもよい、という確証です。 4~5節
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
私たちは、光の子ども、昼の子ども神の子どもとされているのです! 暗やみにいるのではなく、光の中にいます。 イエスさまは、ヨハネの福音書8章12節で、語られました。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
光というのは、きよさや正しさを表しています。私たちはイエス・キリストのうちにいることで、きよさと正しさの中にいるのです。 ですから、私たちには、主の日は襲ってきません。すでに、そこから救い出されているからです。
では、光の子、昼の子、神の子はどのような態度で、その日を待つべきなのでしょう? 6,8節を見てみましょう
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
パウロはここで、「眠っていないで、目をさまして」と言っています。また、イエスさまは、ゲッセマネの園で祈られているとき、弟子たちに、「誘惑に陥らないで、目をさまして、祈っていなさい。」と言われました。 ここでの、眠っているとは、自分の周りで起こるかもしれない、いろいろな状況を考えることをしないで、自分のことだけを考えている状態のことでしょう。 使命を忘れた霊的無感覚な状態、といってもよいでしょう。具体的には、霊的に目覚めていること――祈りと御言葉を通して、今がどういう時なのか、何をすべきなのかを、聖霊によって、教えて頂くという姿勢で生きて行くことなのです。
6,8節の最後の言葉に注目したい!「慎み深くしていましょう。」とあります。原語の意味は「静かにして、落ち着いて、用意周到にして」です。
榎本保郎先生は、こう言っておられます。
「今、イエスがここに来られて『榎本、おまえ何をしているか』と問われたときに、『いや、ちょっと・・』と言い訳をしなければならないような生活は、慎み深いということではありません。」
最後に、すばらしい約束が書かれています。9,10節
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
10節の「目ざめていても、眠っていても」は、文字通りの意味でもありますが、もう一つは、生かされていても、すでに死んでしまっても、という意味でもあります。 結論は、「主とともに生きるためです」
十字架上でイエスさまが、ひとりの強盗に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。死を迎えても、その先で主と共に生きる、という約束の言葉です。
私たちが幸いな人生を送るための秘訣は、基本的なことを繰り返し、積み重ねていく事でしょう。勉強でも、スポーツでも、習い事でも、仕事でも、家事でも、コツコツ積み上げて、繰り返して行うことが尊いのではないでしょうか!
そして、クリスチャン人生こそ、基本に戻ることが重要なのです!クリスチャン生活の基本は何ですか? み言葉と祈りです! どうしたら良いかわからなくなったら、聖書に戻るのです! 私たちの歩みの基本は、マタイ6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
終りの時代に生かされていることを覚え、祈り、み言葉の語りかけに耳を傾けながら、慎み深く歩んで行きましょう。