2024.11.17 ルカの福音書8章26-39節
(1)悪霊の存在とその働き
今日の聖書箇所は、現代人からみたら作り話やおとぎ話のような、現実的にはあり得ないような出来事が記されています。26-27節を見てみましょう。
こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。
彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
「悪霊につかれている男」という表現があります。多くの人は、悪霊の存在、またその働きについては知りませんし、そんなものはないと否定します。 悪霊などというものは、無知な人、また、無知な時代の人が考えることだ、というふうにしか考えていません。科学が発達していなかった時代や、未開の人々の間では、精神的な病にかかった人たちのことを、悪霊につかれたのだ、と考えていたのだと言うのです。 しかし、科学が著しく進歩している現代でも、悪霊につかれている人がいなくはないのです。 私たちは悪魔とか悪霊という、超自然的な存在とその働きについては、神のみこころが示されている聖書以外の方法で、それを正しく知ることはできません。そうでない方法でそれを知ろうとすれば、悪魔や悪霊によって、誤った考えに引き込まれてしまうことがあるのです。
悪魔や悪霊というのは、もともと御使いたちであったと聖書(ユダの手紙6節)にあります。
自分たちの領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたち
また、イザヤ書14章12-15節には
暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。
どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
とあります。これは、神に仕えていた御使いが、神よりも自分を高い位置に置こう、自ら神になろう、という高慢の罪のために、地に落とされ、やがては底知れぬ所に落とされるという、預言なのです。ですから、神に反逆する霊たちであり、最初の人アダムを誘惑して罪を犯させて以来、人類を罪の中で神に背いて生きるようにさせているのです。これが悪魔の最大の働きなのです! エペソ人への手紙2章2節にある通り
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として
今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
ですから、すべての人間は、神によって生まれ変わらせて頂くまでは、悪魔、悪霊の支配下にあり、また、クリスチャンになっても悪霊の影響を受けない訳ではないのです。
今日のゲラサ人のように、見るからに悪霊につかれている、と分かる場合がありますが、こういう形ではなく、このみ言葉のように、まことの神の救いに与っていない人は、自分が意識していなくても、すべて悪魔、悪霊の支配下にある、と聖書は語るのです。エペソ2:3
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、
肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
どんなに高い教育を受けても、優れた能力を持っている人でも、社会的な地位や業績を持っていても、 生まれたままの肉の性質を持っている人間は、自己中心であり、欲に負けてしまうのです。
(2)なぜ、悪霊につかれてしまうのか
もう一度、27節を見てみましょう。
イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。
彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
イエスさまと弟子たちが、かなりひどい症状が現れている悪霊につかれた人に出会いました。この人の状態は「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。」とか、29節には
彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては
悪霊によって荒野に追いやられていたのである。
などとあるように、誰が見ても、本当にひどい状態であったことがわかります。しかし、その異常性は、決して精神的な病から来ていたのではないことがわかります。30節にこうあります。
イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。
悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。
レギオンというのは、ローマ軍の軍団名で3~6千人ぐらいの軍団です。「悪霊が大ぜい」と書かれていますが、実に多くの悪霊につかれていた、ということがわかります。
ひとりの人の中に、そんなに多くの悪霊が入り込むことがあるのです! なぜ、そんな事になってしまうのか? 聖書はあまりはっきりとは示していません。 しかし、聖書の教えを土台とし、私たちの経験を通して教えられることは、悪霊が私たちのうちに入り、悪霊につかれるようになるには、それなりの理由があるということです。 それは、悪霊の大好物であるエサがそこにあるからなのです。それでは、悪霊の好物であるエサとは、何でしょうか。
それは、まず第一に異教の物です。クリスチャンになっても、異教の神棚、仏壇、お守りなど、異教的なものを残しておけば、悪霊はそれを足場にして入ってきます。 また、以前信じていた異教、行っていた占い、まじないなど、一切のものと決別をしていないと、それが罠になりかねません。そうした異教的なものだけでなく、不品行、うそ偽り、盗み、また人に対する恨み、ねたみ、憎しみ、悪意、冷たい心、赦していない心、高ぶり、すべて悪霊のエサになります。 こういうものをいい加減にしておくと、悪霊はすぐに入り込んでしまうのです。
(3)私たちに託された働き
イエスさまが舟に乗って帰ろうとされると、悪霊を追い出して頂いた人が、お供をしたいと願い出るのですが、イエスさまはそれをお許しにならないで、39節
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」
と言って、彼がそこに残って、彼がなすべき使命をお与えになりました。すると、39節後半
そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。
とあり、彼は主から託された使命を果たし、大いに伝道したのです。
しかし、ゲラサ地方の人々は、イエスさまが悪霊につかれて苦しんでいた人を、悪霊から解放してくださった、その素晴らしい事に目を向けませんでした。多くの豚を失ってしまったという、物質的・経済的な損失の方に目を向けて、イエスさまに立ち去ってくれと頼みました。
しかし、この出来事は、いつでも人間が目先のこと、目に見える世界のことしか考えないものだという事をよく表しています。自分の財産を突然奪ってしまったひどい奴、としかイエスさまを見ることができませんでした。霊的に盲目であるという点において、彼らも悪霊の支配下にある人たちでした。
イエスさまが、彼がお供をしたいと願った時にそれをお許しにならなかったのは、その地方では、彼にしかできない働きがあったからです。私たちも、私たちが毎日生活する場、それが家庭であれ、職場であれ、学校であれ、私たちでなければできない働きがあるのだと思います。それこそ、私たちの言葉と行いを通して、主を証することではないでしょうか。
私たちを救ってくださった、神の大きな、大きな御業を、多くの人たちに愛の行いをもって示し、喜びをもって語っていきたいものです。