top of page

与え続けなさい

2024.9.8 今週の講壇 ルカの福音書6章38節  

 

(1)受けるよりも与えるほうが幸い

今日は、この38節、1節だけに絞ってお語りしたいと思います。

 

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

 

「与えなさい」という言葉を聞くと思い浮かぶのは、私の生涯求め続けて行くべき聖句のひとつである、使徒の働き20章35節です。

 

主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべき

 

この『受けるよりも与えるほうが幸いである』とのみ言葉! 普通考えたら、この反対で、受ける方がいいと誰もが思うでしょう。 しかし、私たちは、「受ける、与えられる」だけでは満足できません。人間の欲望は限りがない、と言われます。 たとえば「雨風がしのげる家があればいい」が「もう少し広い所に住みたい」となり、「自分の家が欲しい」「もっと大きな家に住みたい」となる訳ですね。

 しかし、与えるという行為は、たとえ小さな愛の行為であっても、私たちの心を満足させるのです。 マザー・テレサは「愛されたいという渇きは、愛してこそ、初めていやされるもの」と言っています。人間は愛に餓え渇いていますが、この渇きは、人から愛されることや、受け入れられることによってではなく、むしろ、愛すること、赦すこと、人を受容することを通して、いやされるようになります。これは、まさに逆説的な不思議な結果をもたらす真実なのです。

 

(2)天に宝を積み上げる

「ノープレス・オブリージュ (Nobless Oblige)」

 

という言葉をご存知の方はいるでしょうか? フランス語から来た英語ですが、高い身分に伴う道徳的、倫理的、精神的義務と言う意味の言葉です。 ルカの福音書12章48節にこうあります。

 

 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

 すべて多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

 

この「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」ということが、「ノープレス・オブリージュ」であると言えるのではないでしょうか。 ルカの福音書12章33節には次のようにあります。

 

持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、

朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、

しみもいためることがありません。

 

経済的に余裕のある人は施しをしなさい、天に宝を積み上げなさい、と聖書は言っています。お金がなくても、賜物のある人、技術のある人、時間のある人は、それらをささげて、主に用いて頂くのです。 私には何にもありません、という人がいますか? その人は祈ってください、自分に与えられている良きものを発見することができますから!      

 イエスの弟子の集団である教会が真に生かされる道は、原則は与えることだ、と尾山令仁先生は語られました! そして、ご自身の証を次のように語るのです。

「私がこの事について、本当にわかった時、私の信仰生活は大きく変わり、また、飛躍しました。自分の信仰、自分の聖化と、自分のことばかり見つめていた自己保身的姿勢から、喜んで主にささげ、人に与える生き方に変わった時、主は私の信仰を大きくはばたかせてくださいました。これをするには確かに勇気がいります。しかし、主がみ言葉において約束しておられるところに、私の全てをかけたのです。すると、主はその約束通りのことをしてくださいました。私が今なお主に用いられているのはその点にあります。」   

 

(3)信仰の世界の原則

本当に豊かな、主にある恵みの経験をした者は、いよいよ与えていく者になっていくでしょう。パウロは、第2コリント9章6-8節でそのことを語っています。

 

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

 

多く種を蒔けば多く生える。これは当然のことですね。種を惜しんで、まあこれくらいにしておこう。と言って少ししかまかなければ、少ししか生えてこない! これは信仰の世界の原則でもあります! 多く施す、多く与える者は、神さまから多くのものを与えられるのです! 神さまは種まで心配してくださるお方なのです。次の10節には

 

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

 

とあります。蒔くべき種、与えるべきものも神さまがくださる! だから、それを全部蒔いて、与えて続けていくと、さらに幾倍もの収穫、溢れるばかりの神さまからの祝福が注がれていくのです! それを明確に語っているのが、今日の聖書箇所、ルカ6章38節なのです。

 

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

 

「押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」という、すごい表現になっていますね! それほど神さまの下さる祝福は、器に一杯に、ではなく、あふれてしまうほどに、豊かに注がれる、ということなのです!

最後のみことばを見て終わります。

 

「あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」

 

人に対して量る量り、その量りがそのまま返って来るのです。だから、裁く者は裁きが返って来る。赦さない者は、赦されないということが返って来る。与える者は、与えられるということで返って来るのです。赦す者は、赦されるということで返って来る! 自分の量る量りで量られる。

 私たちは、神さまに対して、イエスさまに対して、どういう信仰の量りをもって仕え、従っているでしょうか? 小さな量りを差し出して「この位でいいですよね」と言っていないでしょうか? もっと大きな量りをもって、信仰を持って、大きく差し出して、びっくりするような、神さまからの大きな量りで量り返されるような、祝福を注いで頂こうではありませんか! 

多く捧げる者は、多く用いる者は、多く与えられる。これは信仰の世界の原則です!

 

天に宝を積む人生を送りましょう。 

                                    

 

※今回の内容は、「アダムのパンツ」大川従道著(いのちのことば社刊)から、多くの部分を引用させて頂きました。

                                      

 
 

最新記事

すべて表示
愚か者になるなかれ

2025,11,2 ルカの福音書12章13-21節    今日の聖書箇所の直前で、イエスさまは弟子たちに対して、権力者などの所に連れていかれたときに、何を、どう言おうかと心配するな、言うべきことは、その時に、聖霊が教えてくださるから。と語っておられました。 その時、群衆もその話を聞いていたと思います。ひとりの人が前に出てきて、唐突に自分の抱えている問題の解決をイエスさまに願い出るのです。  クリス

 
 
神を認めて生きる

2025,10,26 ルカの福音書12章8-12節    今日もルカの福音書12章の短い箇所から、神の御言葉の深みに漕ぎ出したいと思います。 まず8-9節を見ましょう。   そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。   イエスさまが

 
 
神との平和宣言

2025.10.19 ローマ人への手紙5章1~5節    ローマ人への手紙は「信仰義認」が中心的なテーマです。   「信仰によって義と認められる。律法の行いによるのではない。」というプロテスタント教会の根幹となる考え方です。 救いは、神の一方的な恵み、愛の業、何かしたから、救いに与かった、ということでは決してない!とパウロは繰り返し語るのです。  「異邦人もユダヤ人も、すべての者はイエス・キリスト

 
 

ジョイチャペル

©2023 by JOYCHAPEL. created with Wix.com.

bottom of page