2025,3,16 ルカの福音書9章43-48節
(1)神の言葉を心に
今日お開きした箇所の直前、ルカ9章37-42節にはイエスさまと3人の弟子たちが、山から下りてきた時のことが記されていました。イエスさまが、悪霊に苦しめられていた子どもを、神の権威をもって追い出し、いやされたという出来事がありました。神の御業を目の当たりにした弟子と、そこにいた群衆は共に、大きな驚きと感動に包まれたのです。それが、43節前半の
人々はみな、神のご威光に驚嘆した。
という表現になる訳です。そして、今日の聖書箇所の43後半-44節につながっていきます、
イエスのなさったことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。
「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」
そういう時に、イエスさまは突然、ご自身がこれから歩まれる十字架への道を、再度語られたのです。 今日はまず、このイエスさまが語られた「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい」に注目したいと思います。 しかし、次の45節には「弟子たちは、このみことばが理解できなかった」とあります。
私は、毎週のように「聖書通読」をしましょう、と語り、お勧めしています。しかし、聖書を読んでいく中で、理解できない、よくわからないことが出てくると思います。また、説教を聞いていても、特に心に響かない、ということもあると思います。毎回そうだと、困りますが。
けれども大事なことは、聖書の言葉を聞いても、読んでも分からないことが沢山あっても、イエスさまは「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい」と語られたのです。
やがて時が経って、色々な経験をしてくると、「ああそうか、そういうことだったのか」と、後になって分かる、悟ることが沢山あるからなのです。
ですから、みなさん、最初は聖書を読んでも分からない事があるかもしれませんが、わからなくても、読み進めてください。
ここでも、イエスさまの語ったことを、弟子たちは全然わからなかった。けれども、「わからなくても、わたしの語る言葉を、耳に入れておきなさい」と、イエスさまは言われたのです。 これがまず、私たちが神の言葉を聞くのに必要な態度なのです。 納得できなくても、わからなくても、とにかく語られた言葉を心に入れておくことなのです。
この時弟子たちは、イエスさまのおっしゃることが分からなかったけれど、やがてイエスさまは十字架に架かられ、死んで葬られた事実を見たのです。そして、おっしゃられた通りに、三日目によみがえられた! 弟子たちは一時、失意のどん底に落とされたけれど、復活されたイエスさまにお会いして、再び、希望がよみがえった! そして、やがてペンテコステの日に聖霊が彼らに下り、目が開かれて、今までわからなかったこと、イエスさまから聞いていた沢山のこと、心に入れていたことが、みんな一つ一つ、「ああそうだったのか、そういうことだったのか」と、手に取るように
わかって来たのです。
今の私たちも同じではないでしょうか。 最初はわからない。けれどもその言葉を心に入れて、あるいはわからないなりに聖書を読んでいけば、必ず、段々わかって来るものです。どうぞ続けて聖書通読に取り組んでください。必ず、神さまがあなたに相応しい御言葉をもって語ってくださいます!
私たちの信仰の基盤は聖書です。 聖書信仰は十字架信仰です。
「あなたは神の子キリです」との信仰告白をした弟子たちも、彼らが描いている救い主、キリストは、ローマの支配から解放してくださる、政治的な解放者だったのです。ですから、イエスさまが十字架の道を語られても、彼らは理解できなかったのです。 45節には
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。
とあり、「隠されていた」とあります。どういうことなのでしょう? 考えられる第一のことは、弟子たちにはまだ聖霊が降っていなかったので、霊的なことは理解できなかった。もうひとつは、自分たちの思いの中で、「ローマからの解放者であるメシア(救い主)」との思いしかないので、その他の救い主は受け入れられなかった。自らの理解しかない、それ以外はあり得ない、という壁を作ってしまっていた、という事ではないでしょうか。
イエスさまが死に向かっているということは、受け入れたくなかった。そして、王位に就いたイエスさまの側近となる、この地上での栄誉を望んでいたのです。 だから、二度も十字架への話をされたのに、理解できなかったし、イエスさまの考えを深く聞くことに不安を感じて、尋ねるのを恐れたのです。
罪を犯したら、必ず罰を受けさせる、それが社会の秩序を保つ基本的な考え方です。聖書は「罪の支払う報酬は死です」とあります。ですから、罪人の私たちは本来、永遠の死という罰を受けねばならない者だったのです。しかし、神の「あわれみ」のゆえに、テモテ第二の手紙2章4-6で
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としての
キリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。
とあり、神の子キリストがご自分の命を差し出すことによって、私たちの身代わりに罰を受けるようにしてくださったのです。 私たちはいつも、このイエスさまによる十字架の救いの恵みを、新鮮な思いで受け止め、「いつも喜び、常に祈り、すべての事に感謝して」歩んで行く者でありたいと思います。
(2)一番偉い者は
イエスさまが十字架の道を語った、そのすぐ後で、46節
さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
弟子たちは、そして、私たちも、霊的に鈍くなってしまうと、どうしても世の中の考え方に影響を受けてしまいます。 人との比較が始まります。自己中心的な考えが強くなります。この弟子たちの議論が典型的な姿です。12人の中で、誰がイエスさまの一番近くに座れるのか。心の中では、「俺が一番だろう!」と思ったり、「あいつよりは俺の方が上だろう」などと考え、議論していたのでしょう。 私たちも同じようなことをしていないでしょか。教会の中で「あの人より私の方が、信仰的にしっかりしているな」「私の方がちゃんと奉仕している」など考えたことはありませんか。そういったものが自分の内側に芽生えてきたら、霊的に低下している証拠です。知らず知らずの内に高慢になり、人を批判したり、裁いたりするようになってしまいます。
そうなる、最大の原因は、自己中心なのです。 ですからイエスさま47-48節で、こう言われるのです。
しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
当時のユダヤでは、子どもという存在は価値のない者、数にも入らない者、と見られていました。誰が一番偉いか、などと議論している弟子たちに対して、イエスさまは誰もがびっくりするような、考えも及ばないことを言われたのです。「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」
マルコ9章では、だれが一番偉いかの議論の直後にイエスさま、35節で
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
先に立ちたいなら、仕える者になれ、と言われ、同じ所をマタイは18章4節で
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
「自分を低くする者が」と言われるのです! 実に、この世の考えと聖書の世界は違うのだ、いや、全く逆なのだと思わされます。 この世は、トップになること、上を目指すこと、多くの人を従わせる者になること、そういう人が偉い人と言われます。 しかし、聖書の世界は真逆なのです! イエスさまは、最も小さい者、みなの最後となり、みなに仕える者、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です、と言われるのです。
私たちは、自分ではなかなかそういう者にはなれそうもない、と思ってしまいます。だからこそ、神さまにお頼りして、イエスさまが、また聖書が何を語り、何を示しておられるのかを思い起こさせて頂きながら、謙遜な態度で、神と周りの方々に仕えていく歩みをさせて頂きたいと思います。 箴言18章12節をお読みして、今日の説教を閉じます。
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。