コペルニクス的転回
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026,3,15 ルカの福音書13章1-5節
今、私たちは「会堂購入」という大きな働きのために、ひとり一人が祈り、神様に示されたものをおささげしています。
このことについて、私からみなさんに2つのお願いがあります。
一つ目は、「私は、ほかの人のように献金は出来ない。申し訳ない。」と、思わないで頂きたい!それぞれの方が置かれている状況はみんな違います。神様はご存じですから、「神は喜んで与える(ささげる)人を愛してくださいます」とⅡコリント9:7にありますから。
もう一つは、全員がささげて頂きたい、ということ! 今、言ったように、額ではなく、喜んでささげてください。誰一人「私はどうなるか、見ています」「私は、そういうつもりで教会に来ているわけではないので」などと言わないで、教会に来られている方で部外者は一人もいません。 神様が、こういう時に、この教会に来させてくださったのです。傍観者にならないで、神が導かれた、この大きな働きの中に加わってください。 そして、一緒に、神の御業の「目撃者」になって頂きたいのです!
さて、今日の聖書箇所を見ていきましょう。まず、ルカの福音書13章1節
ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
これはどういうことかというと、エルサレムの神殿の中で、ガリラヤから来たある人々が、犠牲の供え物をささげて、神を礼拝しているその真最中に、ピラトによって遣わされた追っ手の者たちに捕まって殺されてしまったのです。そして、その犠牲の血に自分たちの血をまじえたという、そういう出来事の知らせをもって、ある人々がイエスさまの所にやってきた、ということなのです。
これはユダヤ人にとっては、この上なき悲惨なことでした。ユダヤ人にとって、神殿はまことに神聖な場所です。その神殿の中での礼拝の真最中に殺されたのです。これはユダヤ人にとっては大変ショックな出来事でした。
なぜ、ピラトがガリラヤ人の血を神殿の中で流すようなことをしたのか。聖書には書いてありません。 しかし、想像はすることができます。
当時は、地中海世界をローマ帝国が支配していました。ユダヤ人たちは、神に選ばれた選民としての誇りがありました。そして、選民である自分たちと自分たち以外の者を異邦人としてはっきりと区別していました。 その異邦人であるローマ人の支配下に置かれるということは、ユダヤ人にとっては屈辱的なことでした。 そんな中で、ガリラヤ人たちは頻繁にローマに反乱を企てていたのです。もしかすると、そこで殺されたガリラヤ人というのは、前から狙われていた、今で言ったら指名手配犯だったのかもしれません。
このような、実にショッキングなニュースが、ガリラヤにいたイエスさまにもたらされたのです。 その時、イエスさまは、その知らせたを告げた人たちの心の思いを見抜かれて、こういわれたのです。2-3節
「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。 そうではない。
神殿での礼拝中に殺された! 神の面前で、そこまで、悲惨な目に遭うからには、そのガリラヤ人たちは、よっぽど神のみこころに背き、神から見放された存在だったのだろう、という思いがユダヤ人の心の中にあったのです。
ともすると、私たち日本人の心の中にも、このイエスさまが指摘したような思いを抱いてしまう事があるのではないでしょうか。 思わぬ不幸にあった人を見ると、なんでこんなことがあの人に起こったのだろう、と考え、もしかしたら、自分たちが知らない所でその人が何か悪いことをしていたからでは・・・、などと思ってしまうのです。 そんな目に遭ったのは、なにか理由があるはずだ。
このような考え方をする人は、今も昔も、洋の東西を問わずいるのです。
旧約聖書の中に出てくるヨブという人は、子どもたち、財産すべてを失い、自らもひどい病になるという大きな災難に遭いました。 それを聞いた3人の友人たちがお見舞いに来たのですが、あまりに悲惨なヨブの状況を見て、こんなことが起こったのには理由がある、ヨブはきっと隠れた罪を持っていて、そのためにこのような罰を受けているのだ、と考えたのです。 そして、ヨブに罪を告白し、悔い改めるようにと迫るのです。 ヨブを慰めるためにやってきたのに、かえってヨブを責めてしまうのです。
イエスさまはそのような、原因を詮索しないで、むしろガリラヤ人が礼拝中に殺されたからといって、ほかのガリラヤ人よりも罪が深かった、というようなことはないのだ! ときっぱり言われて、続いてこう言われたのです。3節
わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
イエスさまがここで言っておられることこそが「コペルニクス的転回」が必要だ、とのことなのです。 どういうことでしょう?
ほかの人のことを、何だかんだと言うより、自分のことを考えよ、ということ!
「人を指さしているその指を、自分に向けよ」、なのです!
大切なことは、他の人の運命よりも、自分の死や死後のことについて、真剣に考えなければならない、ということです。
ですから、イエスさまはこの時、もう一つの例を挙げて、同じように悔い改めなければならないことを語るのです。 4-5節
また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
自然災害においても、そのような不幸なことが起こったら、その人たちが何か悪いことをしたからだ、と言う人がいます。 しかし、そうではないのだ!「あなた自身も悔い改めなければ、同じように滅びるのだ」という警告を、神はそうした災害を通しても教えておられるのです。
3節も5節も、結論の言葉は全く同じ!「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」 私たちはこの言葉を厳粛に受け止めなければならないと思います。
「滅びる」と言うのは、存在が無くなることではありません。祝福の源である神から完全に切り離されて、永遠の呪いの中で、苦しみ続けなければならないことなのです。イエスさまが十字架に架けられて、苦しみ抜いて死なれた、あのような苦しみを。
そこで、もし私たちが悔い改めもせず、そのために滅びに行くとしたら、そのキリストの苦しみを永遠に受け続けなければならないのです! ですから、そこに行かないために、イエスさまは私たちに悔い改めを勧めておられるのです。
では、「悔改める」とはどうすることなのでしょう? これは、元々、考え方の方向転換をすると言う意味です。 まさに「コペルニクス的転回」をすること! 今までの考え方、生き方を変えること!
これまでの生活は、神に背を向け、滅びへ向かって真っすぐに歩んでいたわけです。しかし、それから180度方向転換をして、今度は神を仰ぎ、神を信じる生き方をすることです。
「悔改め」は信仰に入るときだけにするものではありません。 私たちは、生きている限り、ダメだとわかっていても、誘惑に足を引っ張られて罪を犯してしまうことがあったり、心の中でよくない思いを抱いたり、人に対して高ぶったり、妬んだり、怒ったり、非難したりしてしまうのです。また、無意識に人を傷つけたり、悲しい思いをさせてしまう事があるのです。 ですから、クリスチャンであっても、日々悔い改めが必要なのです。
昨夜、ここまで礼拝メッセージを準備して、私自身の罪と、その罪を神と人の前に悔い改めた出来事を、思い出しました。
高2の冬休み、果物屋さんでアルバイトをしました。年末の忙しい時で、店頭でミカンの販売の仕事をしていました。現金のやり取りがひとりで完結してしまうのです。当時はレジなどなく、天井から篭がつるされていて、そこに頂いたお金を入れ、お釣りもそこから出すのです。ある時、お客さんの出した千円札を自分のポケットに入れ、お釣りは篭の中から出したのです。
数年後の礼拝説教で、もし罪があったら、悔い改め、誰かに対しても具体的に謝罪する必要があれば、しなくてはならない、と牧師が語られました。 すぐに、封筒にお金を入れて、かつてのバイト先に出かけました。「実は私はクリスチャンになって、過去の罪が示されたので、・・」と言って謝罪をしました。お店の方は、「よく言いに来てくれたね」といって、封筒を受け取ろうとしませんでしたが、何とか受取っていただきました。
聖霊の語りかけがなかったら、「過去のことだ、もう終わってしまったことだ、今更恥ずかしい思いをしなくても」 と思ってやり過ごしていたかもしれません。
クリスチャンになってからでも、自己中心、自己保身という思いが、頭をもたげてくるのです。だから、イエスさまは、ヨハネの黙示録3章19節で
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
と語るのです。
熱心に悔い改め、まさに聖霊の働きによって「コペルニクス的転回」をさせて頂き、 自己中心の生き方から、神中心の生き方へ 変えられた歩みをして行きましょう!