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キリスト者の確信

2024.6.30 ヨハネの手紙第一5章13~21節

 

(1)この手紙を書いた目的

 ヨハネの手紙第一の最後の箇所になりました。今日の所は、手紙全体の結論ともいうべき内容であり、手紙を書いた目的が明確に記されています。5章13節

 

 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。 

 

この手紙が書かれたAD90年頃、当時の教会は2つの困難に直面していました。外側からは迫害があり、内側にはイエスが神であることを否定するにせ教師たちがいました。そういう背景の中で、この手紙が書かれた目的が13節にある、<あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、よくわからせるため>!! だったのです。「この福音は何があっても、揺らぐものではない」との励ましを与えるものだったのです。

 

(2)特権としての祈り

 そして、その永遠のいのちの希望を持っている神の子の特権としての「祈り」について語るのです。14-15節

 

 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。 

 

みなさん! これはすごい内容ですね! この言葉をそのまま信じ、自らの信仰の姿勢として歩んで頂きたいと思います。 「どんなことでも、聞いてくださる」と言うのです。条件はただ一つ「みこころにかなう願いをするなら」・・・ えっ? 私の祈りは、みこころにかなっているのだろうか? 心配になってきますね。 でも、大丈夫です。私は祈りについての話をするとき、「何を祈ってもいいんですよ、何でも神様に話してください」と勧めます。「祈り」について考えるときに、いつもイエスさまのゲツセマネの祈りを思い起こします。マルコの福音書14:36

 

 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 

イエスさまご自身も、「十字架に架からなくてもいいようにして下さい!」と祈っているのです。 イエスさまは、ご自分が何のためにこの世に遣わされたのか、どんな使命が与えられて、この地に来られたのかを、よーくご存知でした。ご存知であるにもかかわらず、「十字架はイヤです!父なる神さまは、何でもできるお方ではありませんか。もっと別の方法で、人々を救ってください」と訴えたのです。人としてのイエスさまは、心からの願いをそのまま直接ぶつけたのです。 知性では、自分のなすべきことはわかっていても、感情では、あの残虐極まりない十字架に自分が架けられ、長時間、恥ずかしい姿をさらされ、辱しめられ、あざけられ、苦痛を与えられながら、最期はわき腹に槍を刺されて絶命する。 「そんなことはイヤです!やめてください」 そう祈ったのです。 しかし、祈りはそれだけで終わっていないのです。後半で「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈っているのです。

 なぜでしょう? それは人の思い、考え、計画、願いよりも、神のみこころがなされる方が良いに決まっている、とイエスさまは知っていたから。だから「みこころをなさってください」と祈ったのです。 私たちも、自分の願い、求めをそのまま祈っていいのです。 でも最後に、イエスさまのように「みこころをなしてください。」と祈るべきでしょう。

 神様は私たちの祈りを聞いてくださるだけでなく、応えてくださるお方です。 よく子どもたちには、神様は3種類の方法で祈りに応えてくださいます、と話します。一つ目「はい、祈った通りにしてあげましょう。」 二つ目「はい、祈った通りにしてあげましょう。でも、すぐにではありません。一番いい時にかなえてあげますから、待っていてくださいね。」 三つ目「いいえ、あなたのその願いは、あなたのためになりませんから、叶えてあげるわけにはいきません。」

 神様は私たちを愛して、私たちのために最善の方法で祈りに応えてくださるのです! 

 

(3)何を祈るべきか

 祈りの中で最も尊い祈りは他者のために祈る、とりなしの祈りです!具体例が16節

 

 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。

 

ここで問題となるのは「死に至らない罪」と「死に至る罪」があるということです。

 死に至る罪、とはどんな罪を言うのでしょう? この言葉とよく似た「死に至る病」という書物があります。哲学者のキルケゴールの著作です。内容は、第一部と第二部の題名から推論できます。第一部は「死に至る病とは絶望である」、第二部は「絶望とは罪である」 じっくり考えると、そうだな、と思えるのではないでしょうか? 絶望から脱け出せなければ救いはありませんよね。 そして、絶望は罪だ、だから、それこそは、死に至る病だ、と論じるのです。まさに、今日の「死に至る罪」と重なります。 

 聖書は罪を犯したままでは永遠の滅びに至る、と語ります。ローマ人への手紙6章23節

 

  罪から来る報酬は死です。

 

「死に至る罪」に関して、イエスさまご自身がマタイの福音書12章31-32節で、

 

 人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません

 

と語っています。 「死に至る罪」それは、聖霊をけがす罪だというのです! コリント人への手紙第一12章3節

 

 聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

  

聖霊の働きを拒絶して、イエス・キリストを信ぜず、罪を犯し続けるなら永遠の死に至るというのです。

 また、彼は「死に至らない病」についても言及し、それは希望につながるものだというのです。ここでも聖書が語る「死に至らない罪」と重なります。イエスを救い主と信じて、心にお迎えした者は、たとえ罪を犯してしまっても、内に住んでいてくださる聖霊が、その罪を示し、悔い改めに導いてくださり、罪の赦しを頂くことができるのです。まさに希望につながるのです。 だから、私たちは、罪を犯している兄弟姉妹、隣人のために、神に背を向けている周りの人たちのために、とりなしの祈りをするのです。これは命令ではなく、必然的な、しかも自発的な「願い」となるのです。

 まことの神、永遠の命を頂いている者として、祈りの絶大な力を確信して、最大の奉仕である、とりなしの祈りをもって、主に仕えていきましょう!

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