top of page

キリストと同じような者

更新日:2024年4月29日

2024.4.28 ヨハネの手紙第一4章12~17節

 

(1)神を知る

 今から約500年ほど前に宗教改革者カルヴァンは、「ジュネーブ教会信仰問答」を著しました。それは子どもたちの信仰を育むことが主な目的でした。そして、その第一問は、

「人生の主な目的はなんですか。」という、子どもに人生の目的を問うものでした。 幼い時に人生の最も大事な問いを突きつけるのです。問答ですから、答えがあります。こう書かれています。「答 神を知ることです。」この信仰問答によって、子どもたちは、なぜ今、自分は教会で信仰の教育を受けているのかを知るのです。それは人生の最も重要な目的と、真剣に向き合わせるためだったのです。

 それは今、ここにいる私たちについても同じことが言えます。

 しかし、「神を知る」とはどういうことでしょう? 神が存在することを知ることでしょうか。超自然的なことを通して体験的に神を知ることでしょうか。

 私たちは、ある人を知ろうと思ったら、まず、その人のことを調べたり、身近にいれば話をしたりするのではないでしょうか。また仲良くなりたかったら、その人と一緒に時を過ごす、「寝食を共にする」と言います。ですからスポーツの団体競技では、合宿などしてお互いによく知り合って、チームとしての一体感を作ったりする訳です。

 神様を知るためには、神様についてよく調べる。どうやって?聖書を通して! でも、それだけでは知識だけになってしまいます。もっとよく知るためには、時間をかけて語り合う、交わることが必要なのです。時間をかけて人と接していくと、その人のうわべでだけでなく、本質がわかってきます。 同じように、神様と時間をかけて交わっていくと、神の本質がわかってくるのです。神の本質とは何でしょう? Ⅰヨハネ4:16には「神は愛です」とあります! 

 「神を知る」ということは、神の愛を知ることなのです!さらにヨハネは「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています」と語るのです。彼は、この神の愛を知り、知っているというだけではなく、この神の愛を信じている、信じて生きていけるこの幸いを喜んでいるのです!

 

(2)愛の章

 Ⅰヨハネ4章は、Ⅰコリント13章とともに「愛の章」とも呼ばれています。

3章~4章にかけて「愛」「愛する」「互いに愛し合う」というフレーズが何度も出てきます。特に「互いに愛し合う」と言う言葉は、5回も出てきます。何度も同じ言葉をくりかえし語るということは それが重要であるからにほかなりません。ヨハネが晩年になって、これだけは伝えておきたい、忘れないでほしい、と願って語り、記した内容が「互いに愛し合いなさい」ということなのです!

 イエス・キリストは「大切な戒めはどれですか」と律法学者に尋ねられた時、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)と答えられ、続いて、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。そして、Ⅰヨハネ5:3には「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とあり、さらにⅠヨハネ3:23には「神の命令とは、・・・私たちが互いに愛し合うことです。」とあるのです。

 こう見てくると、はっきりしてくるのは、「神を愛する」「隣人を愛する」「互いに愛し合う」ことは別々のものではなく、「神を愛する」ことは、目に見える「隣人を愛する」ことであり、それは「互いに愛し合う」ことでもあるのだ!ということがお分かりいただけると思います。

 しかし、神の愛は一方通行では完成しないのです。私たちが神から差し出されている愛を受け取り、この神の愛を信じて生きるときに、神の愛は全うされ完成するのです。そして、神の愛が私たちを「愛する者」へと変えていってくださるのです。 努力して自分で「愛する者」に変わるのではなく、神の愛を、信仰を持って受け取る時に、私たちは「愛する者」に変えられるのです。

 

(3)キリストと同じような者

 最後にもう一つだけ。17節の最後に「それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」とあります。 「・・・私もキリストと同じような者」だろうか?と思わされました。皆さんはどうでしょう?「この世で私は、イエスのような者である」と言えますか? 「そんなこと、とても言えません」と思いますか。しかし、わたしたちが「神の愛のうちにとどまる」なら、そのように言えるのだ、と聖書は語るのです。それは、イエスが「父よ」と言って神に呼びかけるように、私たちも「天のお父さま」と言って呼びかけ、祈ることができるのです。イエスも私たちも「神の子ども」ゆえに、神に向って「父よ」と言える、まさに「キリストと同じような者」なのです。

 罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストが罪を償う犠牲として私のために十字架で死んでくださった。その事ゆえに「キリストと同じような者」されたことを忘れてはならないのです。

 私たちは裁きに会うことなく、神の御前に出る時に 心から「お父さま!」と呼び掛けて 永遠に 親しく交わり 感謝と喜びあふれて 過ごすとこができるのです!

 
 

最新記事

すべて表示
安全で確かな錨

2026,7,5 へブル人への手紙6章13-20節  年齢を重ねた夫婦になると、「あれ取って」とか「あれどうなった?」で会話が成立するということがありますね。 前回の見た、へブル6:12には 信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。 とあります。「あの人たち」? どの人たち? この手紙を読んだ人たちには、いろいろな信仰の先輩たちが浮かんできたこと

 
 
熱心に仕え、愛を示す

2026.6.28 ヘブル人への手紙6章4~12節  小さな子どもは「これ何?」「どうして?」「なんで?」と無邪気に、と言うか、単純に知らないことを知ろうと思って、聞いてきます、質問をしてきますね。 私たちも神さまに関して、聖書に関して、そのような好奇心とか、探究心とかをもって、信仰生活を送っていくということは、とても大切なことであり、失っていけない態度だと思います。  反対に危ういことは、そ

 
 
翼の下にかばうように

2026,6,21 ルカの福音書13章31-35節  今日は父の日!みなさんのお父さんはどんなお父さんでしょうか? どんなお父さんだったでしょうか?この日くらいは(?)お父さんのことを深く思う時としたいと思います。   今日はルカの福音書13章34節を中心にお語りしたいと思います。 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひな

 
 

ジョイチャペル

©2023 by JOYCHAPEL. created with Wix.com.

ot.JPG
bottom of page