2024.5.12 ルカの福音書5章12~16節
(1)「全身ツァラアトの人がいた」
(「ツァラアト」とは、以前の聖書では「らい病」と表記していた。しかし、聖書の世界のこの病は現代のハンセン病とは違う。国もキリスト教会も同一視して、ハンセン病患者の方々に、辛い思いをさせていた時期もあった。聖書では、このツァラアトに冒された者は汚れた者、罪ある者とされた。現代のハンセン病とそれとは違う、ということが新改訳聖書第3版の巻末にそのことが記されている。また、新共同聖書では理解しやすいように「重い皮膚病」と訳している。)
今日はルカ5:12-16から、特に前半を中心にお話をさせて頂きます。12節「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』」とあります。「全身ツァラアトの人がいた」とありますが、ギリシャ語本文には、この文頭に「見よ」との言葉があります。「注目せよ」、「通常でない光景がここにあるぞ」と言った意味です。「見よ、全身重い皮膚病の者がいるぞ」こんな所にいてはいけない者がいるではないか! 律法を破り、常識を破って、ここにいる資格のない者がいるではないか! 普通のユダヤ人はこういう考え方をしていました。 しかし、常識に捉われていたのでは、救いに与ることができないのではないでしょうか? イエスさまの十字架の死とよみがえり、永遠の命、常識で考えたら、あり得ないこと。でも、その常識を超えて、時には決まりの枠を超えて、イエス・キリストを救い主と信じ、心の中心にお迎えします、と告白するとき、神はその信仰告白を受け取ってくださり、今まで、感じた事のない、味わったことのない喜びと平安で心を満たしてくださるのです!
(2)わたしの心だ
この重い皮膚病人の求めに対して、イエスさまはどんな反応をされたのでしょう。13節には「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」とあります。同じ出来事を記したマルコ福音書では1章41節でこうあります。「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。」「深くあわれみ」・・・皆さん! 私たちの主イエスさまは、あわれみ深いお方なのです。
「あわれみ深い」を辞書でひいてみると「他人の辛苦に同情し、いたわろうとする心にあふれているさま。」とありました。イエスさまは、あわれみ深い方なので、全身重い皮膚病の人を見て、病そのものの苦しさ、家族、仲間から切り離された悲しさ、周囲の人から蔑む目で見られる辛さ、そういったものすべてを、深くあわれみ、なんとかしてあげよう、そこから解放してあげよう、その思いが、まさに思わず「手を伸ばして、彼にさわって」と言う行動に出たのです。律法では、この病の人には触れてはいけない! しかし、思わず手が出てしまった。やむにやまれぬ、イエスさまの愛の心がそうさせてしまったのです。律法で禁じられていても、愛は、時として決まりや常識を超えます! 愛は行動させるのです。じっくり考えないで、後先考えないで、愛する人に会いに行ってしまうことがあるでしょう!
愛は、まず行う、動く! その後、語る「わたしの心だ。きよくなれ」。 あなたをいやし、あなたを救うのは、わたしの心だ、わたしの願いだ、と神は語るのです。 1テモテ2:4「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。神は望んでおられるのです! あなたが救われるのは、神のみこころなのです。そして神はそれを喜んでくださるのです!
先日、かつての教え子たちが私の古希のお祝いをしてくれました。久しぶりに40代半ばになった教え子たちに会える、その事だけを楽しみに出かけました。ところが、彼らは心のこもった祝いの品を、時間差で次々に差し出すのです。これには、もう本当に感動の一言でした。私の驚きと喜ぶ姿を見て、彼らの方がかえって喜び、とても嬉しそうでした。
神様が、愛をもって用意した「救い」という贈り物を差し出してくださった時、私たちが喜んで、感謝して受け取る姿を見て、神様も大いに喜んでくださるのです!
私たちが神に逆らって歩んでいる真最中でも、神を神とも思わない歩みをしている時にあっても、すでに神の側では、私たちの救いは全部準備し終わっているのです。そうして「わたしの心だ、救われよ」と、ひとり一人に呼びかけていてくださるのです。だから、「信じます、お願いします」と神の呼びかけに応えて、任せれば、救いが成就するのです! これから聖書を学んで、修行して、頑張って救われるのではないのです。すべての人の救いは、神の側においてすっかり整えられている!
「わたしの心だ。きよくなれ」「すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」 イエスさまのもとに行くとき、問題は消える! いや、問題は残るかもしれませんが、その問題がもう問題でなくなるのです。自分を苦しめていた心の傷、傷つけられた相手に対する赦せない心、自分を前向きにさせない劣等感、不安・恐れしかない死の問題、そして、自分でどうすることも出来ない、聖くなれない罪の問題も「わたしの心だ。きよくなれ」と言ってくださるイエスさまJのもとに行く時、それらのものは消えて、喜びと、平安と 感謝が心を満たすのです。
私たちが聖くなりたいと思う前に、神様は私たちが聖くなることを望んでおられるのです。1テサロニケ4:3「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」 もう全部整っているから、キリストが用意されている救いを、信じて、仰いでいけばいい! それだけで、私たちは神の聖さに与れるのです。
「わたしの心だ。きよくなれ」 これは今日、私たちひとり一人に対するキリストの心からの愛のお心、愛の言葉なのです。感謝して受け取り続け、愛の心、愛の言葉をあふれさせていきましょう。