2024.4.14 ルカの福音書5章1~11節
(1)押し迫るようにして
1節「群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、」とあります。 群衆が押し迫るようにして、イエス様の話、神の言葉を聞いた。すごい状況ですね。なぜ、群衆はそのようにしてやって来たのか? それは、彼らがイエス様のなさった、悪霊を追い出し、病人をいやす、といった驚くべきことを見、またその噂を聞いたからなのです。
では、教会でもいやしや奇跡が行われて、その噂が町中に広がるようにすればいいのでしょうか? 「しるしと奇跡、いやしの集会」といった集会を開催している教会もありますが、私たちは、そのようには導かれていません。みなさんには、渡辺和子さんというカトリックのシスターが書いてベストセラーになった書物の題名である「置かれた場所で咲きなさい」という姿勢でいて頂きたいと思うのです。
ヨハネ15:16には、私たちは神が愛をもって選んでくださった者であり、任命された者なのだ、と書かれています。そして、その目的は「実を結び、その実が残るため」とあります。簡潔に言ったら、「私たちは、キリストに似た者となるように任命された」といってもいいのではないでしょうか。 「・・・そんな一方的に任命されても困ります。私みたいな者が、キリストに似た者になんかになれるはずないじゃないですか」と言いますか? または、病人なんです、高齢の親の世話をしているんです、手のかかる子どもがいるんです、経済的に困窮しているんです、「これ以上何をしろと言うんですか?」と言いたいですか? みなさん、この教会は「新しい皮袋の教会」です。「これをしなくてはいけない」、「これをしてはいけない」という教会ではないのです。 それを忘れてしまうと、不平、不満、誰かを裁く、ということが出てくるのです。
神の愛と恵みによって、私たちは選ばれ、救われ、そしてクリスチャンとして、キリストに似る者として任命されました。キリストに似るとは、どういうことなのでしょう?最もふさわしいみ言葉は、2テモテ2:8「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」でしょう。今、どんな状況の中にあってもその現実に不平、不満を言わないで、誰かのせいにしないで、よみがえられたイエス・キリストをいつも思っている。すると、そこに何がやって来るのでしょう。イエス様は私たちの罪を赦すために私たちの身代わりとなって十字架に架かってくださいました、それによって、私たちに対する計り知れない神の愛を示してくださった!この事実に感動し心が震えて来ますでしょう。イエス様がよみがえられたように私たちもよみがえるのだ、との希望が心を満たして来るでしょう。永遠の命が与えられていることに、尽きない喜びと感謝があふれて来るでしょう。 今あなたが置かれているその場所は、神が置いて下さった場所なのです。だから「置かれた場所であなたの命を輝かせなさい」と勧めるのです。「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」生活をしていったら、周りの人は驚くのではないでしょうか。それこそ、あなたの姿に奇跡を見るのではないでしょうか! 日々、いつも、よみがえったイエス様を思って歩んでいたら、やがて、時至って、「あなたの行っている教会に行ってみたい」「あなたの信じている神のことを知りたい」という方々が、起こされるのではないでしょうか。 やがて、教会に人々が押し迫るように神の言葉を聞きに来る時がやって来ることを信じて、祈り、お従いして行きましょう。
(2)でも、おことばどおり
イエス様は、シモンの船に乗って、そこから群衆に向って語られました。そして「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた。するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。』」とあります4-5節。「私たち漁師が夜通し頑張ったのにダメだったのです。素人の先生が何を言っているのですか」と言って、断ることも出来たのです。しかし、彼はそうは言わなかった!5節の最後で「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言ったのです。この「でもおことばどおり、~してみましょう」という態度が、私たちにとって、ものすごく大切なことなのだという事を、今日、心に刻みつけて頂きたいのです。 私たちは毎日、世の中の常識、知識、経験の中で暮らし、物事を判断しています。それは日常生活の中で大切なことです。けれども、信仰の世界は、それらを超えた、神の言葉に生きる世界なのです。神が個人的にお語りくださった言葉に対して、従うか否かによって、信仰生活が祝福されたものになるか、または、感謝や喜びがなく、感動もないものになってしまうか、大きな違いが出てくるのです! 常識や経験に照らして、とても受け入れられないことであっても、シモンは従ったのです!なぜ? イエス様の言葉だから!
「でも、おことばどおり」の「でも」が、常識、経験という有限な人間の世界から、無限の神の力の世界へと私たちを飛躍させ、導くカギなのです! み言葉を知っているだけでなく、語られたみ言葉に従う歩みをしていく中で、神から考えられないような大きな、大きな祝福を頂いて、与えられた使命に生き、喜びと感謝に溢れた人生を歩ませて頂きましょう!