つまずき、悔い改めと赦し
2026.11.1 ルカの福音書17章1-4節
歳を重ねると、ちょっとした段差や、畳のヘリにもつまずいて転んでしまう、なんてこともあるみたいですね。 信仰生活の中でも「つまずく」「つまずいた」という言葉を時々耳にします。
私たちクリスチャンは、キリストにあって、すでに死んだ者であると聖書は語ります。古い自分に死んで、新しい人に生まれさせて頂いた者です。高木輝夫先生は、かつてこんなことをおっしゃいました。「死んだ犬を蹴飛ばしても、ワンともキャンとも言わないでしょう!」
罪ある肉に対して死に、キリストにあって生きる者とされているのですが、イエスさまは「つまずきが起こるのは避けられない。」と語られるのです。確かにそうだなと思います。
結構多いのは「牧師につまずいた」という話。ぎくっとしますね。この教会の牧師は、寒いおやじギャグで受け狙いばかりして・・・なんていう声が聞こえてきそうな気がしますが、みなさんの愛と寛容さによって、支えられ、なんとか御用が続けられていることを感謝します。
ルカ17:1~10は弟子たちに向かって語られています。今日の箇所の1-2節では「つまずき」について、3-4節では「悔改めと赦し」について語っておられます。
まず前半の「つまずき」についてみていきましょう。 1節
イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。
「つまずき」のギリシャ語の意味は「わな」「障害物」「罪に誘惑するもの」という意味です。ここでイエスさまは、弟子たちに対して、そして私たちクリスチャンに対して「つまずきが起こるのは避けられない」と語っておられるのです。
つまり、罪に誘惑されたり、信仰の歩みを妨げられたりすることはあるのだ、と言われるのです。 この世は、人に罪を犯させるようなものでいっぱいです。
テレビ、ネット、雑誌、人々の会話などには、私たちを神から引き離す話題があふれています。まさに、つまずきは避けられません。 罪のわなが至る所に仕掛けられています。第一ペテロ5:8には
「悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」
とあります。恐ろしいですね。 だから神のひとり子イエスキリストが、神の位を捨ててこの罪の世に来てくださらなければならなかったのです。ただ来てくださるだけではなく、自ら十字架にお架かりになり、すべての人の罪を解決しなければならなかったのです。それほどまでに、この世の罪は、私たちの罪は深刻なものなのです。
「罪の誘惑」「罪のわな」この「つまずき」という言葉はギリシャ語でスカンダラといって、英語のスキャンダルのもとになった言葉です。
1節後半に「つまずきを起こさせる者はわざわいだ」とあります。つまずきが起こるのは避けられないのだけれども、自分が人をつまずかせるようなことをしたら、それはわざわいだ、とんでもないことだ、とイエスさまは言われるのです。
そして2節に続きます
この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
「小さい者」は文字通り、ユダヤ社会では、人数にも入れてもらえない女、子どもといった目にとめてもらえない存在であり、また、新共同訳では「身分の低い、力の弱い者」と訳されています。
私はこの「小さい者」で思い浮かんだのは、ヨナ書の最後で神さま言われた言葉です。ヨナ4:11
「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえもしない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
「右も左もわきまえもしない十二万以上の人間」ニネベのすべての人のことでしょう。クリスチャンでない人に対しても、つまずきを与える者は
「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましだ」
と言われるのです。
石臼を首に縛り付けられて、海の沖に出て行って、そして深い所にドブンと沈められる。ローマ時代にこういう死刑の仕方があったそうです。恐ろしいですね。生きたまま、海の中に投げ込まれ、苦しみ悶えながら海の底に沈んでいく。
しかし、その方がましだ、とイエスさま言うのです! なぜですか? 信仰をもって主に従って歩んでいる小さな者を、もし、つまずかせるなら、信仰からはずれさせてしまうなら、それは大きな罪を犯す者であり、厳しい罰が与えられるのだ。 だからこそ、つまずきを与えるような者にならないように、というイエスさまの警告なのです。
かつて私が信徒の時代に、ある人がもう一人の人に向かって、激しい言葉で非難している状況を目の当たりにしました。まもなく、その非難された人は教会から去っていきました。まさに、強烈なつまずきを与えてしまったのです。
後半の3-4節を見ていきましょう。
気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
「気をつけなさい。」という戒めです。あなたがた自身も、気をつけなさいと実際には書いてあります。人のことを指摘する前に、自分はどうなのだろうか、と自らに問いかける必要があるでしょう、というのです。
確かに私たちは、人のことはよく見えるのですが、自分のこととなると意外と見えていないことが結構あるのではないでしょうか。
私はしばらく前から、頭でこう言おう、と思ったことと、口から出る言葉が違ってしまう事がしばしばあるのです。つい最近では集会後のアナウンスの時に「本日行う予定でしたバザーの品物の『値札はずしの作業』は延期になりました」という所を『値付け
作業は』と言ってしまったのです。それも指摘されるまでは、まったく気がつかず、反対のことを言ってしまった、という自覚はなかったのです。これは老化の一つであるかもしれませんが、ここではあなたに人を裁く権利などないのだ、と言っているのです。 それよりも最も大切なのは、自分の罪を自覚して、神の前にそれを告白し、悔い改めて、赦して頂くこと! これをしなかったら、クリスチャン生活で成長はできません。
3-4節を文字通り受け止めると、兄弟が罪を犯しても、悔い改めるなら赦しなさい、ということなのですが、 これを神さまと私たちとの関係として読み替えると、
あきらめたり、間違ったりしてはいけない。もし私たちが罪を犯したなら、聖霊がそれを示して下さり、そして悔い改めれば、神は赦してくださいます。
もし、神さまに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度神さまのところに行くなら、赦してくださいます。
「一日に七度罪を犯しても」とありますが、一日は24時間で、そこから睡眠時間、まあ7時間として、起きている時間は17時間。その中で7回罪を犯したら、約2時間25分に1回罪を犯す計算になります。 そんなに頻繁に罪を犯しても、そのたびに、真剣に悔い改めれば、神さまは赦してくださるというのです。
また「7」という数字は聖書の世界では完全数ですから、ここでは、何度でも、どこまでも、という意味であり、私たちが心から悔い改めるなら、神さまは赦し続けてくださる、ということなのです。
常識では考えられないことです。2時間半前に心から悔い改めたのに、また罪を、過ちを繰り返す。 日本には「仏の顔も3度」ということわざがありますが、そんなに頻繁に罪を繰り返されたら、いくら寛容で、心の広い人でも「いい加減にしろよ!」という気持ちになるでしょう。
しかし、イエスさまは信じられないような愛をもって、私たちを愛し、赦し続けてくださるのです! この
「人知をはるかに越えたキリストの愛」
(エペソ3:19)にお応えして、愛するイエスさまに、心からの感謝をもって、喜びをもってお従いしていきましょう。
