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それを、ここに持ってきなさい

更新日:1月27日

2025,1,26 ルカの福音書9章10-17節

 

(1)12弟子の配慮と願い

 今日の聖書箇所は、みなさんもよく知っている「5千人の給食」と言われている内容で、4つの福音書すべてに記されています。それだけ重要な内容なわけです。まず、10-11節

 

さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。

ところが、多くの群集がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。

 

ここから分かることは、大きな働きをして帰って来た弟子たちの報告を受け、彼らの労をねぎらい、休ませるために、ベツサイダの町へ「ひそかに」退いて行ったのです。

 しかし、もっとイエスさまの話を聞きたい、病をいやして頂きたい、という人たちは、イエスさまを追いかけてきました。この群衆を見て、「イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった」のです。そして、群衆も喜んでイエスさまの話を聞いていたわけです。 まさに時間も忘れて、恵みの言葉に浸っていたのです。ですから、12節

 

 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群集を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから」と言った。

 

日も暮れ始めたので、もう解散させましょう、と弟子たちは、イエスさまに進言するのです。この考えは、至極当然ですよね。時間を忘れて話に夢中になっていて、気が付いたら、周りは暗くなっていく、注意を促すことは大切なことだと思います。

 しかし、同時に、彼らは群衆を早く解散させて、自分たちとイエスさまだけの親しい交わりを持ちたい、それをほかの人たちによって邪魔されたくない、という考えもあったのではないかと思います。 

 

(2)キリストの心

 しかし、イエスさまのお考えはそうではなかった。イエスさまは、多くの人の願いに、必要に、いつも応えようしていました。13節

 

 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」

 

マルコの福音書6章34節には

 

イエスは、舟から上がられると、多くの群集をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 

とあります。イエスさまは、群衆に対して「深いあわれみの心」を持っておられた。だから「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われたのです。

人々が必要としているのであれば、あなたがたがその必要に応えてあげなさい。

そう、弟子たちに、また私たちに語っているのではないかと思わされるのです。

このイエスさまの指示に対して弟子たちの答えは 13後半

 

「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」

 

「そんなことできる訳ないじゃありませんか!5千人もいるんですよ、ここには五つのパンと二匹の魚しかないんですよ。ムリに決まっているじゃありませんか」 弟子たちの思いはこんな感じだったのでしょう。 弟子たちは、「そんなことは無理」と決めてかかっていました。ですから、14節

 

しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」

 

 こうした方が、これから食事を配る方も、受け取る方も混乱しないで済むという、イエスさまの細やかな配慮を見ることができますね。

 そして、弟子たちが群衆を組に分かれて座らせると、16節

 

するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。

 

イエスさまは、子ども一人分の弁当である、五つのパンと二匹の魚を手に取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、弟子たちに与え、群衆に配らせました。

 この奇跡の御業をされるにあたって、マタイ、マルコ、ルカは、イエスさまは、「天を見上げて、それらを祝福して裂き」とありますが、ヨハネだけは、「感謝をささげてから」とあります。ということは、イエスさまは5つのパンと2匹の魚を手に取って、父なる神さまに感謝の祈りをささげ、祝福して裂き、弟子たちを通して群衆に配ったのです。 

 ここでイエスさまがまず、天を見上げて父なる神さまに感謝をささげ、それから神の御業を信じ、期待して祈る姿は、私たちが模範とすべき祈りの姿なのです。私たちはともすると、どうしてもこの願いを叶えて欲しい、という思いが強く出て、まず、その願いを祈ってしまいがちなのではないでしょうか。 どんな状況にあっても、まず神さまを賛美し、感謝をもって祈っていく時、神さまは、驚くべき御業を現わしてくださることを、この箇所は示しているのです。そして、最後17節

 

人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。

 

人々はお腹いっぱい食べることができた! 余ったパン切れは12かご・・・なぜ、イエスさまは過不足なく、ちょうどよい量ではなく、12かごも余るほど配らせたのでしょうか? この余ったパンはどうしたのでしょうか? 今回、そのことを考えた時、食べ物を捨てる訳はないでしょう。

 12人の弟子が1万~1万5千人に対して、パンと魚を配ったのです。その労力と言ったら大変なものであったろうと思うのです。日が暮れて、空腹を覚えた群衆の比ではなかったはずです。ということは、イエスさまは12人の弟子たちのために、12かごのパンを残るようにしてくださったのではないか、と考えられるのではないでしょうか。

 それほど、イエスさまは愛と恵み、思いやりに富んだお方なのです。 イエスさまは私たちの必要をご存知で、それを満たしてくださるお方なのです。

 私たちが最も必要としているものは罪からの救い、聖霊の満たし、導きです。 イエスさまは十字架をもって私たちの罪を赦し、救われた者の内に聖霊となって住んでくださり、日々導いて下さっているのです。まさに感謝の言葉もないほどの恵みです! 

 

(3)それを我に持ちきたれ

 イエスさまが、男だけで5千人を満腹させるほどの食事を与えた時、最初にその手にあったのは、5つのパンと2匹の魚だけの少年の貧しい弁当でした、それを持って来た弟子のアンデレはヨハネの福音書6章9節で

 

「それが何になりましょう」 

 

焼け石に水どころではないでしょう、と言っているようです。5千人もの人の食事を用意することなどできるはずがない。常識的な見方をすればその通り。自分にはできないという思いが強く心を支配するのです。なぜですか? 弟子たちは、今、自分たちが持っているものにしか目が、思いが、向いていないのです。誰を見ているのですか? 自分しか見ていない!信仰とは、文字通り神さまを信じて仰ぐことなのです! 自分を見たり、人間の常識などで事は解決しないのです。神を仰ぎ見ることなしには解決の道はないのです。 だから、イエスさまは、マタイ14章18節で

 

「それを、ここに持ってきなさい」

「それを我に持ちきたれ」(文語訳聖書)

 

と語るのです。 貧しく弱い、足りないとこだらけの、こんな自分では何の役にも立たない、と自分で決めつけないで、そのままの自分でいいから、私の手にあなた自身を委ねなさい。私が、私の方法であなたを用いるから、とイエスさまは私たちひとり一人に語っているのではないでしょうか!

                      

 
 

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