2024.10.27 ルカの福音書8章16-18節
(1)信じた者の歩み
イエス・キリストの福音を信じて救われた者、クリスチャンは素晴らしい経験をした人たちです。滅びに向かっていた人生から天国へと向かう人生に変えられました! この人生の大転換をさせて頂いた私たちは、その事がどんなに価値あるものかが、わかっているはずなんですね。その価値あるものを、自分のものだけにしておけないのが、クリリスチャンです! それが16節で言われていることなのです。
あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。
燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
聖書全巻をお一人で訳して、現代訳聖書を著した尾山玲二先生が、救われた直後の証をこんな風に語られています。
「私も救われた時、このすばらしい救いの福音を、家族の者や、恩師、友人に知らせずにはいられませんでした。・・・最初に救われたのは、家族の中では妹でした。それからしばらくたってから、父、母、兄、兄嫁、祖母、叔母などが救われました。恩師は(小学校時代から大学時代の)先生方に手紙を書きました。友人は(小学校時代から大学時代の)人々に語りました。・・・大学にキリスト者学生会(KGK)という会を作り、これによって福音を学友たちにつたえることにしました。」
(2)光を隠さない
今日のイエスさまのたとえ話も、だれもが「そうだな」と納得できる話です。暗くなったら明かりをつけて、部屋全体が明るくなるようにします。明かり、当時はランプだったわけですから、明るくするために、火をつけたのに、そのランプを器で隠したり、寝台の下に置いたりなんかしないわけです。
私たちクリスチャンも、私たちが頂いている福音の光を放ち続けるためには、どんなに素晴らしい福音の言葉でも、一回聞けばそれで十分とは言えないのです。 福音を信じて、生まれ変わっても、その体験や、感動に安住していると、その人は、それ以上成長することはできません。 新しく生まれたということは、まだ霊的な赤ちゃんなのです。 赤ちゃんは、お乳を飲んで、新鮮な空気を呼吸するとか、世話をしてくれる人に従うとか、適当な運動をするとか、家族の中で生活するとか、基本的ないくつかのことが必要です。そうでないと成長できません。
クリスチャンの成長も、それと同じように、霊的なお乳である、み言葉がどうしても必要ですし、新鮮な空気を呼吸するように、祈りを通して神との交わりが必要なのです。また、世話をしてくださるお方である神さまに従順に従う必要があります。具体的には、みことばを読むとき、みことばを通して語りかけてくださる神さまに従うことと、教会に立てられた指導者である牧師に従うことです。また、霊的運動である証も必要です。どんなに御言葉を読み、祈り、神さまに従ったとしても、証をしていないクリスチャンは、霊的成長をすることができないのです。そして、クリスチャンが健全に成長する所は、教会です。 教会は、神の霊的家族だからです。
そのように、成長しているクリスチャンは、神さまから頂いた、福音の光、恵みの光を隠してはならないのです! 口で言い表し、また生活そのもの、行いによって、表していく「その光が見えるため」に生きて行くことが大切なのです。
私の教員時代に、最後の転勤先になった中学校の歓迎会の時のあいさつでは「私は、月から金までは、中学校の教員ですが、土日は教会の牧師をしています。結婚式の司式もしますので、よろしかったらお声をかけてください」と言ったら、本当に数年後に同僚の結婚式の司式をすることになりました。また、私が牧師であることを知って、聖書のこと、信仰のことを聞きに来たり、礼拝に出席した先生もいました。信仰者であることを隠さなかったので、そういった話もでき、また、たくさんの生徒たちも教会に来て福音に接することができました。 反対に信仰を隠してしまって、今となっては心に痛みを覚える過去もありました。高校の卒業式直前、お別れ会のようなものをクラスでやった時に、会の半ばで、ひとりの女子生徒が「これから兄弟が作った歌を歌います。兄弟と言っても肉の兄弟ではありません。」と言って、ゴスペルというか、いわゆる賛美の歌を歌ったのです。雰囲気的には、それまでの賑やか、和やかな空気が一転して、静けさが漂ってしまいました。その会は、私が進行役だったので、なんとかその場を繕おうとして、「え~では、ここで小話を一つ」なんて言って、笑い話をしてしまったのです。 私は、高3の6月に洗礼を受けていましたから、本来であったら、「Tさんクリスチャンなんですか!僕も6月に洗礼を受けて、クリスチャンになったんです」と言うべきでした。しかし、そんなことは、一言も言わず、反対に彼女の証の機会を奪うようなことをしてしまったのです。本当に申し訳ないことをしてしまったと思っています。クリスチャンであることを隠していた、高3卒業時の残念な証です!
(3)光は他者を照らすために
今日の結論は18節です
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。
これが結論? 多くの人は、聖書は、なんて不公平なことを言っているんだ、弱者を切り捨てて、豊かな人をさらに豊かにしようとしているのか!と言って怒るでしょう! 経済的な見方をすればそうかもしれません。しかし、聖書は、そんな事を言っているのではありません。 ここの聖書箇所を、わかりやすく訳した現代訳聖書で見てみると、こう訳しています。「持っている人」は「神の国の奥義を知り、求める心を持っている人」とし、「持たない人」は「神の国について何の興味も持っていない人」と訳しています。「神の国の奥義に毎日生き続ける人」は、それによって養われるのです。 具体的に言えば、みことばを、心から信じ、それに従うなら、聖書に書いてある約束通りの体験をすることができ、信仰がさらに大きく成長していくというのです。 ところが、人間的な常識を働かせて、聖書はそう言ってるかもしれないけれども、現実はそうはいかないのだと言って、みことばをそのまま受け取らずに、割り引いて受け取ろうとする人は、神の約束の素晴らしい体験を味わうことなく、信仰もほとんど成長しないままになってしまうのです。
イエスさまが期待しておられるのは、みことばを心から信じて、それに従う人なのです!
「神の国の奥義を持っている人」は、それによって成長していくために、求め続けて、与えられたものを生かし、神からさらに多くのものを与えられ、また任され、大きく成長し、豊かにされていくのです。
この恵みの福音を、隠すことなく、救いの光、福音の光、キリストの光を輝かせ、周りの人たちに、その光がハッキリと見えるような、愛と喜びと、感謝をもって、神と人に仕える生き方をさせて頂きましょう!