すべてのことが完了した
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 5 日前
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2025.4.13 ヨハネの福音書19章23-30節
(1)聖書の言葉は成就する
今週はイエス・キリストが十字架に架けられ、墓に葬られた受難週と呼ばれる一週間を過ごします。イエスさまが十字架上で、どんなに苦しまれたかに、深く思いを寄せたいと思います。
今日の聖書箇所から2つの言葉に注目したい。まず、23-24節をお読みします。
さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。
一つ目は、「聖書が成就するため」という言葉。この言葉は、24,28,36節と3回出てきます。ここで言われている聖書は、旧約聖書のことを指しているのですが、聖書は見方によっては「預言の書」であり「神の約束の書」でもあります。 その約束について神ご自身が、イザヤ書55章11節で次のように語っています。
「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
神は真実なお方ですから、語られたことは必ず実現なさるお方なのです。
19世紀に聖書の預言に関する研究していた、オックスフォード大学の教授がイエス・キリストによって成就した、聖書の預言を数えた結果、なんと332が、イエスによって実現した、と計算したのです。さらに、この332の預言がイエスというひとりの人物によって、預言通りに実現する確率を計算したところ、この預言がすべて成就する確率は、84×10の97乗分の1。すなわち、84の後ろに0が97つく、それ分の1。限りなく0に近い、ほとんど不可能と言う数字だというのです。
預言を詳しく見れば見るほど、聖書は確かに神の言葉だ、イエス・キリストは確かに救い主なんだということを認めさせられるのです。
「聖書は誤りのない神の言葉」と信じている私たちには当然のことですが、聖書の預言がすべて成就するという、限りなく不可能に近いことが実現したということは、まさに神の業以外に考えられず、「聖書は神の言葉」だと科学的にも証明されたのだと思います。
(2)「完了した」
2番目に注目する言葉は、30節の
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、
霊をお渡しになった。
イエスさまの十字架上の最後の言葉「完了した」です。
この言葉をいろいろな訳の聖書でみると、理解が深まると思います。
「完了した」(新改訳、詳訳)、「すべてが終わった」(口語)、
「成し遂げられた」(新共同訳)、「救いの業が完了した」(現代訳)
「何もかも終わった」リビングバイブル、「事終わりぬ」(文語訳)
神の人類に対する、愛とあわれみのゆえに、ひとり子を地に降し、滅びるしかない罪人を救
うために、このひとり子イエスさまを十字架につけて身代わりの罰を受けさせた、この神の
救いの計画が、今ここに完了した完結した、と高らかに宣言された言葉なのです。それも十
字架に架けられている苦しみの極みの中で!
しかし、受難週なので、聖書には詳しい記述はないので、十字架のイエスさまを想像してみたい。実際、十字架の苦しみは、私たちには想像できない、言葉で表現できないほどの苦しみなのです。背中から、頭から多量の出血がありますので、貧血の状態になっていたでしょうし、また、異常な渇きを覚えながら、呼吸は困難です。聖書は、この苦しみは沈黙していますが、それは想像を絶するものだったでしょう。普通は十字架に釘づけされても、3~4日は生きていたらしいのですが、キリストの場合は、午前9時に十字架につけられてから、午後3時には息を引き取る。異常に早くキリストは息を引き取るのです。それだけキリストのからだは傷つき、衰弱し切っていたのです。 しかし、人々はキリストが苦しめば苦しむほど、ののしりました。「神の子なら、十字架から降りて、自分を救ってみろ!自分を救えないのか!ユダヤ人の王だと?笑っちゃうよ!」 苦しみの絶頂の中で、ののしられ、あざけられたのです! しかし、こんなむごたらしい十字架の出来事は、偶然ではなく、神の御計画の中で進められていたのです! イザヤ書53章10節の預言、
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」
そこまでしなければ、罪人の赦し、あがないの御業は完了できなかった!
神の愛、神のあわれみ、神の恵みがどんなに大きなことであるかを、もう一度受け止め、感
謝をささげたい。
(3)二人の隠れキリスタン
今日読まなかった、19章の最後の部分38-42節から、二人の人物に注目したい。
まず38節に出てくるアリマタヤのヨセフ
そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」とある。彼についてほかの福音書では「金持で、イエスの弟子になっていた」「有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人」「議員のひとりで、りっぱな、正しい人」とある。
もう一人は、39節に出てくるニコデモ
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
ヨハネ3章で、夜イエスのところに来て質問したニコデモ。ヨハネ3:1では「パリサイ人でユダヤ人の指導者」とある。彼も民の指導者であるからこそ、夜、人目につかないようにして、イエスさまに会いに来たのです。この人も議員であったらしい。当時の議員は、政治的指導者であるとともに、宗教指導者でもありました。 まさにユダヤ人社会のエリートで、彼らは二人とも、立場としてはイエスさまとは敵対関係にあったのです。その中で、二人はイエスさまの言葉と業に目が開かれ、ひそかに信仰の道に入ったと思われます。しかしながら、彼らの立場上、その信仰を公にすることはできなかった。イエスさまに反対し、捕らえ、殺してしまおうと考えているグループのリーダー群の一員である者が、敵方の大将の教えに心動かされ、惹かれている、などということがわかったら、それこそ、今まで築き上げてきた地位も名誉も失うことになる。だから彼らは、イエスさまへの尊敬、信頼、メシアとして受け入れるべきお方、と思ってはいても、それができないでいた。まさに、隠れキリシタンだったのです。
しかし、「神の時」が二人にやってきました。38節の後半と39節をもう一度
アリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
ニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
とあります。イエスさまを十字架から降ろして、ユダヤ人の習慣に従って、まるで王を埋葬するかのような、丁重なしっかりした形で主のお体に、葬りのための備えを施し、新しい、まだ誰も葬られたことのない墓に納めたのです。
この主の埋葬の時、イエスさまの12弟子は一人もいなかった。みんな逃げて、隠れていたのです。それに比べてこの二人は・・・。
普通でしたら、十字架にかけられるほどの極悪人は、囚人のための共同墓地か野ざらしにされるしかなかった。けれども、ヨセフもニコデモも、十字架にかけられたイエスさまの姿、言葉を聞いて、赦しの祈り、語られた愛の言葉、愛の行いに倣って、従うことが真の神に従うことだと、もう隠れキリシタンのままではいられない、腹をくくって、命がけの行動に出たのです! イエスさまの体の取り下ろしを願い、これ以上ないという丁重な葬りを、誰はばかることなく行った! その後の二人について、聖書は記していません。しかし、どんな立場であれ、主イエスを大胆に証して生涯を全うしたであろうことは、想像に難くないと思われます。
私たちはいろいろな思い、様々な環境の中で、心ならずも、隠れクリスチャンとして歩んでいることもあるかもしれない。けれども、神様が「今だ、ここだ」と示してくださる時があるのです。その時、信仰をもって一歩踏み出す時、聖霊の促し、神の助けが与えられ、大胆かつ自然に信仰を公にし、福音を、自らのあかしを語り、また、必要な行動をさせてくださるのです。
最もふさわしい時を、主が示し与えてくださることを信じ、日々主を見上げ、特に、受難週であることを覚え、十字架のイエスさまを、その苦しみを覚えつつ、苦しみののちに、栄光があることを信じ、期待して歩んでいきましょう!