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さあ、行きなさい

更新日:5月19日

2025,5,18 ルカの福音書10章1-3節

 

(1)狼の中に小羊を?

今日からルカの福音書10章に入ります。まず1節

 

その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。

 

「別に七十人を定め」とありますが、これは12使徒とは別に70人を遣わしたということです。そして、「ふたりずつ」遣わしておられます。主の働きをする時は、可能な限り二人、あるいは複数ですることが重要だと聖書は示しています。パウロの3回の伝道旅行も常に同行者がいました。バルナバ、あるいはシラスと一緒でした。 私たちも礼拝になかなか来られない方や、病の方を訪問するときは、二人で行くようにしています。一人が語り、もう一人は祈っている。また、もう一人が別の側面から語ると、話が深まったりもします。単独よりも複数の方が、秩序が保たれるということもあります。チームで動くというのは主の御心ではないかと思います。  2節

 

 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい

 

  イエス様は、宣教開始の際に、十二人の弟子たちを選び、派遣しましたが、今度は七十人に増やされて、それでも足りないと言われています。 私たちは常に、この挑戦を受けています。働き人が足りない!そして、それを祈りなさいと言われているのですから、私たちはまず、祈っていくことが大切なのです。   3節

 

 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。

 

遣わされる所は、喜ばしい、楽な所ではない、恐ろしい敵の中に入って行くようなものだ、と言うのです。 福音を語っても素直に信じる人はあまりいない、それどころか、第一コリント1章23節にあるように

 

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう

 

福音を伝えても、反発されたり、愚かなこと、ばかばかしいことと受け取られてしまうのです。確かにそういう現実があるかもしれません。   

 

 私の父は、経済的には家族に多大な迷惑をかけ、自分も手形の決済に負われる日々で、精神的にも追い込まれる中に置かれていたと思います。 しかし、晩年、母教会の先生が父の自宅の近くの市民センターで毎月、集会を開いてくださり、そこに出席するようになり、大きな慰め、安らぎを得ていました。父は、外の人に対してはつき合いが良く、老人会などの活動が停滞していると、いろいろ考えて、沢山の人が集まれて、楽しい時を過ごせるように工夫し、積極的に動いたりして喜んでもらっていました。そういう関係性の中で、何人かの人に集会のことを話して、誘ったりしていたようですが、ひとりも来てくれませんでした。ある時、父がちょっと寂しそうに、言いました。「勉、集会のことを話して、誘っても誰も来てくれないんだよな」 父が声をかけて、誰かを集会に誘っている? それを知って驚きと、嬉しさを覚えましたが、それに応えてくれないという父の寂しさを感じて、何とも言えない思いになったのです。

 私たちの宣教の働き、教会の働きは、ある面、無駄と思われるような、一生懸命伝道し、労しても収穫が得られないこともあります。最近の言葉で言うと、コスパが悪い働きかも知れません。

しかし、教会の働きは、経済効率を考えて行っているわけではないのです。もちろん、無駄遣いは厳に慎まなければなりませんが、復活のイエスさまが、最後に残した言葉、マルコ16:15

 

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

 

を忘れずに、必要ならば惜しむことなく財をささげ、用いて行かねばならないのではないでしょうか。

 

(2)弱さを自覚して

もう一度3節に戻ります

 

 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。

 

イエスさまは、遣わす弟子たちのことを、小羊にたとえました。羊は愚かで、自分を守る何ものも持っていません。羊飼いがいなければ、生きて行けない動物なのです。そんな羊を、まして小羊を狼の中に送り出すことは、常識的にはあり得ません。狼においしい食事を与えるようなものです。

 イエスさまは、なぜこういうことを言われたのでしょう? 

 弟子たちに「自分たちは、羊のように弱く、知恵も力もない者なのだ」ということを十分自覚して、出かけて行きなさい、と言われているのだと思います。

 これは、私たちクリスチャンが主の働きをさせて頂く時に、とても大切なことなのです。

 その自覚こそが、徹底的に主に頼り、そうしなければ、宣教の業は進んで行かないからなのです。

 人が罪を示されて、悔い改め、救われるのは、聖霊なる神さまの働きによるのです!第一コリント12章3節

 

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

 

神さまが救いに導いてくださるために、私たちが祈り、お頼りし、示された働きをしていくことが、私たちのなすべきことなのです。

 

(3)さあ、行きなさい                             

 実は、このルカの福音書10章3節は、私の召命のみ言葉なのです!

 1980~2000年の20年間、毎年5月のゴールデンウイークの3日間、静岡県御殿場の東山荘を会場にして、新進気鋭の30代の牧師先生たちが中心になって「青年宣教大会」という超教派の集会が続けられました。私は、後半の11年間、毎年出席して、たくさんの恵みと、霊的なエネルギーを注入されて帰って来ました。

 確か、1995年の時だったと思います。何回目かの集会の時、体育館に500人以上の会衆が集まって、講師の先生がメッセージをされました。それは、献身を促すメッセージでした。「このイエスさまの愛に応えて、神さまのためにあなた自身をささげませんか?」と。

 その時開かれたのが、このルカ10章の冒頭の部分だったのです。

 

そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。

 

「さあ、行け!」と熱く語られ、500人以上もいる中で、それはまるで私に向かって語っているように感じられたのです。まさに、聖霊の語りかけだと、思わされました。

 そして、メッセージの最後に「神さまの召しに応えて、主に仕えていこうと示された方は、前に出てきてください」との招きに応じて出て行き、祈って頂きました。 私の召命の言葉はこの3節の最初の言葉「さあ、行きなさい」 非常に短い、けれども力強い語りかけを心に受け止め、歩み出させて頂いたのです。

 イエスさまは「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われましたが、私に対して「もうたくさん祈って来ただろう。その祈りの答えは『さあ、行きなさい』だよ」と語られたのです。

 みなさんも、様々なことを祈られているでしょう。そして、聖書もお読みになっていると思います。神さまは、そういう日々の誠実で地味な信仰生活の中で、祈りに導き、その祈りの答えも与えてくださるのです。

 神を信じて、神とともに歩む、ということは、恵みと平安の中で、時には、驚くべきことを見させ、体験させてくださる世界に導かれるという事なのです。

 主にあって豊かなアメイジンググレイスの中を歩ませて頂きましょう。

                       

 
 

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