こんなにすばらしい救い
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 8月10日
- 読了時間: 6分
2025.8.10 ヘブル人への手紙2章1~4節
日本では、8月は平和について、戦争の悲惨さについて深く考える月です。8/6広島、8/9長崎 8/15終戦、加えて昨年は被団協のノーベル平和賞の受賞がありました。 先週から今週にかけて、様々な平和に向けた行事があり、報道、TV番組が放映されています。平和の大切さ、戦争の悲惨さを伝え続けなければ、という姿勢が強く見られます。
しかし、いくら声高に「平和」を叫んでも、争い、戦いがなくならないことは、歴史が証明しています。 聖書は、この戦いや争いが絶えない原因をハッキリ語っています。ヤコブの手紙4:1-2
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。
自己中心の思い、自分さえよければ、と言う考え、聖書はそれこそが罪だ、と指摘するのです。平和を実現するための第一歩は、私たち一人一人が、すべての人が、「神との平和」を得ることなのだ、と聖書は教えるのです。 今日はまず3節から見ていきます。
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうして(罰から)のがれることができましょう。
聖書の中心的な内容は、言うまでもなく、私たちの救いです。 しかし、聖書を神の言葉と信じていない人にとっては、道徳的に立派な人間になるためとか、人格を磨くため、あるいは教会に行っていれば立派な人間になれる、また、教養人として知っておかなくては、と思っているかもしれません。立派な人格者になることが間違っているとか言っているのではありません。
みなさんの中には、教会に通っていればやがて立派な人間になれる、と思って来ている人はいないと思います。もしかしたら、親が、教会に行っていれば、悪い人間にはならないだろうから、との理由で教会に通わされていた人もいたかもしれません。
私も小3の時から教会に通い始めましたが、親に行けと言われたのではありませんが、行くことに反対はされませんでした。悪い所ではないと思っていたからでしょう。
確かにそういう面もないわけではありませんが、人々を正しい人間にするために教会があるわけではありません。結果として、正しい、良い人間になるかもしれませんが、そのために教会で、聖書の言葉が語られ続けているのではないのです。
聖書が書かれた目的は、「人間の救いのため」なのです。 人格的に優れた人間になる、とか正しい人間になるため、とかと言う考え方と聖書が伝える内容の根本的な違いは、生まれながらの人間と、生まれ変わった人間という捉え方です。
生まれながらの人間のことを、聖書では罪人といいます。 罪人は、いくら修養を積もうが、修行をしようが、学習をしようが、それで罪がなくなる、罪人でなくなる、ということはないのです。 建物で言うなら、修繕ではダメで、一度壊して、新しく建て直さなければならない、というようなものなのです。 それを聖書では、生まれ変わった、また、救われた、と言います。この救いを得なければ、全く新しい人間にしていただかなければ、聖書の語るメッセージを本当の意味で自分のものとすることはできないのです。
聖書は私たちの救いのために、神が用意してくださったものを「福音」と呼びます。「良い知らせ」 と言う意味です。それはイエスキリストの福音。神の御子であるキリストが、人間となってこの地上に来てくださり、私たちが受けるべき罪の罰を身代わりとなって、十字架で受けて下さり、私たちの罪を赦してくださった。永遠の滅びという刑罰を受けるべき者が、このキリストの救いを信じるだけで、永遠の命が与えられる者とされたのです。
これほど大きな救い、つまり「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。」と聖書は語るのです。
私は小3の時、担任をしていた先生の自宅で行われていた、子供会に行き教会に導かれました。初めて信じた内容は、本当の神は神社にはいない、天地を造られたただ一人の神さまだけが、まことの神さまだ、ということでした。しかし、自分の罪がわかり、イエス・キリストの十字架が自分のためであったことがわかり、信じて、救いを頂いたのは、高校1年のときでした。その時から、恐ろしくてたまらなかった「死」の問題が解決し、永遠のいのちが与えられた喜びにあふれ、今日までその喜びが続いています。
「こんなに素晴らしい救い」をないがしろにする、いいかげんにする、無視したら、裁かれるよりほかないでしょう! これをただのお話として聞き流してしまうのか、自分のこととして受け入れるかで、まさにその後の人生に天と地との違いがあるのです。
私たちすでに救われている者は、この神の恵みに慣れっこになり、無感覚になってはいけないのです! 救いの恵みにマンネリになってないか? 振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
1節をみます
ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
最も大切なことは、神のことばを聞くこと。 ローマ人への手紙10:17には
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
とあります。 御言葉をどのように聞いていますか、どんな聞き方をしていますか。 信仰はどんな聞き方をしているかによって、大きく変わっていきます。 不注意、聞き流すことをしないで、語られていることは、私にとってどんなことなのだろう、どんな意味があるのだろう、どうすれば良いのだろう、と考え、思いを巡らす、瞑想する。 すると、ただ読む、聞くだけでは味わえない、
御言葉の深みに導かれていくのではないでしょうか。
マリヤは天使の受胎告知を受けた後、「考え込んだ」(ルカ1:29)とあり、天使のみ告げを受けた羊飼いが、マリヤの所にやって来たとき「これらのことをすべて心に収め、思いめぐらしていた」(ルカ2:19)とあります。
現代は考えなくてもいい時代、思考を深めなくても大丈夫な時代になりつつあります。インターネットで調べれば、何でもすぐに教えてくれます。A Iによって、論文だって書けてしまう時代です。 しかし、考えないクリスチャンではいけないのです。 詩篇1:2には、主の教えを「くちずさむ」「思いめぐらす」とあります。 これがクリスチャンの姿です。
「押し流されないように」とは漂流する、という意味です。どこかに流されていってしまう。 そうなってしまいやすい。私たちは世の中の流れに流されやすいのです! ですから「聞いたことを、ますますしっかり心に留めて」判断をしていかねばならないのです。
神の恵みの豊かさに、もう一度感動をもって浸らせて頂きましょう。この救いが、どんなに素晴らしいものであるかを、日々聖霊により、御言葉によって、新鮮な感動と感謝をもって歩んで行きましょう。