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ここに神の愛が示された

2024.4.7 ヨハネの手紙第一4章7~12節  

    

(1)愛することの難しさ

 今日読んだ第一ヨハネ4章7~12節の中に「互いに愛し合う」との言葉が、3回も出てきます。これは、この手紙の中心的なメッセージとも言うべき言葉であり、イエス様の命令でもある「互いに愛し合う」ことについて深めていきたいと思います。

 この御言葉をただ、教会に来ている人たちだけで仲良くし、楽しい交わりを持ち、自分たちが快適な教会生活を送るための保証となる言葉だ、と考えたら大きな間違です! そう考えてしまうと、楽しい交わりの心地よさの中に安住してしまい、外に向かっての教会の使命が希薄になってしまうからです。 教会の大切な使命は福音宣教!「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(第2テモテ4:2)と聖書は語ります。 それはまた、この地に主がお建てくださったこの教会の独自の福音宣教という使命にも心を向けるべきなのです。教会は地域の教会でなければなりません! 私たちがここで礼拝を行なうのは、主に仕えると同時に、この地域の人々に、また、私たち周りの人々に仕えるためでもあるのです。もし、私たちが自分たちの幸せなクリスチャン生活とか、快適な教会生活のことばかりを考えて、そんな祈り、願いをしていたら神様はお聞きにならないと思います。 私たちに与えられている信仰は、もちろんこの地上での祝福、幸い、喜びもありますが、聖書は、私たちが神に仕え、他者に仕えることを教えています。教会は神の御計画が前進していく所であり、神の愛が私たちを通して現されて行く所なのです!

 けれども、私たちは日々の生活の中で、愛することの難しさを実感しているのではないでしょうか。・・・みんな自分が大切なのです。無意識のうちに自分を守ろうとし、自分の生活、自分の領域を何より先に考えてしまうのです。こうした、私たちの弱さを知り尽くしている神様は、それゆえ、愛するとはどういうことなのかを、具体的に現わしてくださったのです。

 

(2)具体的に現された神の愛

 私たちの周りには神の愛が溢れています! 私たちが生きて行くために最も必要な空気、水、太陽、自然の恵みは、実は神の恵みにほかなりません。人間は命を造ることができません。植物、作物を育てることはできても、その元である、命が詰まっている種をつくることはできないのです。そう考えると、すべては神が愛をもって、私たちが生きて行くために必要なものは用意してくださっていることがわかるでしょう! 私たちが神に愛されている、という事をどうやって知ることができるでしょうか? 小さな子どもはよく両親に「パパ、遊ぼう」「ママ、遊ぼう」と言うでしょう、そう言われて毎回は無理でも、出来るだけ一緒に遊んであげるでしょう。子どもはそれによって、自分が愛されていることを実感するのです。大人だって同じ。自分の為にどれだけ時間を割いてくれるか、自分の話をよく聞いてくれるか、それが、自分のことを大切に思ってくれている、自分は愛されている、という思いにつながるのです! イエス様はこんな事を言っておられます。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)「そんな愛は持ち得ない」と誰もが思ってしまうでしょう。しかし、大切な命、「その命をつなぐ時間」を誰かのために使うこと、それが愛するという事なのだ、と主は言っておられるのです。

 私たちは失敗をしたり、弱さゆえに誘惑に負けてしまうことが多々あるのではないでしょうか。しかし、だからといって、神が私たちから離れてしまうことはないのです!「神は愛です」という時、私たちの状態によって、愛することをやめてしまうような神ではないのです! 神が私たちに示してくださった、最も偉大で、最高のご自身の愛は、私たちのために十字架に架かってくださったことです! この神の愛のクライマックスはヨハネ3:16「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」私たちを救うためにひとり子を惜しまずに差し出された神の愛!これが聖書が示す神の愛!「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(9,10節) このようにはっきりと、神の愛が示されたのだから「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」とヨハネは続けるのです。(11節) また、イエス様がすでに語っておられること!  「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

 クリスチャンが互いに愛し合うなら、その麗しい愛ある交わりしている、それを見たすべての人が、そこにキリストの愛、神の愛が実現していることを認めるのだ!とおっしゃっているのです。

 成熟したクリスチャンは、奉仕に熱心、真面目で品行方正、聖書知識に富んでいる、ではないのです。大切なのは、神の恵みと愛を喜び、人を愛する者にされているかどうかということ!

 

 神は、私たちが愛さない、私たちが神に背を向けているにもかかわらず、歩みよって愛を具体的に現わしてくださったのです! 

聖霊の助けによって、この神をいつも喜び、感謝し、愛する者として歩んで行きましょう。

 
 

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