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2026.3.22 ヘブル人への手紙5章1~10節

 

 ヘブル人への手紙は、その名の通りへブル人=ユダヤ人に向けて書かれた手紙です。

 ユダヤ人は、旧約聖書を、特にそこに書かれている律法を守ることが、神に喜ばれる、受け入れられる信仰の在り方だと考えていました! そういうユダヤ人に対して、旧約聖書全体が、実は真の救い主キリストを指し示しているのだ、と語るのです。

 

 イエスキリストは、ユダヤ人の宗教的指導者であり、尊敬されている大祭司にまさる、偉大な大祭司である、とへブル書の記者は語るのです。 この大祭司であるキリストは、どのような祈りをされたのでしょうか? 7節

 

 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

 

とあります。 イエスさまは人としてこの世で生活なさっていた時、よく祈っておられました。 ルカ5:16

 

 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

 

それは、父である神との交わりのためでした。生れながらの神の御子なのですから、改めて祈らなくても、父である神のみこころはわかっていたのではないか、とも思われます。しかし、聖書を見ると、イエスさまはことあるごとに祈っておられるのです。 それは、神の子ではあっても、「人として」この世に来られた、まさに、私たちと同じように、罪は犯されなかったけれども、私たちとまったく同じ人間として、私たちが経験する喜びも、悲しみも、苦痛も、困難も、行き詰まりも、みーんな味わったからなのです!

 だからこそ、神に祈り、願い、助けを求める必要があったのです。人間イエスとして、何をするにしても、一つ一つ、父なる神様の御心を求めて、地上での生活をなさっていったのです。

 イエスさまはどんなに忙しくても、疲れていても、一人になって祈っておられました。まず、父の御心を求めて、私の願いではなく、あなたのみこころがなされるように、と日々祈って一日を始められました。

 

 イエスさまは常に、サタンの攻撃にさらされ、戦いの中に置かれていました。一日の初めに、叫びと、涙の祈りなくしては前進できない日々だったのです。

 「神の子なら、もっと楽にその働をすればいいのに」という声もあったでしょう。また、人々が自分たちの生活のために、イエスさまを祭り上げようともしていました。弟子たちはというと、不信仰、無理解、・・・そんな中で十字架への道を一歩一歩、歩んで行くためには、祈りが不可欠だったのです!

 

 イエスさまがよく祈っておられたことについては、福音書の中ではルカが一番よく記しています。それを、順を追って見ていきたいと思います。

 まずイエスさまが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時。ルカ3:21

 

 イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。

 

 また12使徒をお選びになるとき 6:12-13

 

 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。

 

姿変わりの山での時 9:28-29

 

 祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

 

 イエスさまの祈りの姿を見て、弟子のひとりが祈りを教えてくださいと願ったとき11:1

 

 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

 

十字架に架かっているときにでも、とりなしの祈りをされました 23:34

 

  そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

ですから 5:16

 

 イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

 

と表現されているのです。

 

 それでは、それがどのような祈りであったかと言うと、このへブル5:7なのです。

 

 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

 

これは、ちょっと見ると、ゲツセマネの園での祈りを指しているようにも思われます。

 しかし、「人としてこの世におられたとき」とあるので、ゲツセマネの祈りだけでないことがわかります。 この原文を直訳すると「ご自分の肉の日々」なのです。 つまり、これは地上での生活の、ある特定の日のことではなく、地上生活をしておられた、間中ということです。ですからイエスさまの祈りは、ゲツセマネの祈りだけでなく、いつも涙を流して、叫び続けながら祈っておられたのだろうと思います。

 

 今日の箇所の前半にあるように、イエスさまは大祭司として、私たちのためにこのようにして、とりなしをしてくださっていたのです。このことだけでも、誰もができない、大変なことだと思います。 一体どこの、だれが、この私のために「父である神に向かって叫びながら涙を流して祈って」くれたでしょうか。イエスキリスト以外にありません!

 さらに、天に帰られてもローマ8:34

 

 よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。

 

イエスさまは天においても、同じように父である神に私たちのことを、とりなしていてくださるのです。            

 

 7節に描かれているイエスさまの祈りの姿は、ゲツセマネでの祈りの姿と、確かに重なるものがあります。

 その祈りの内容を見てみましょう。ヨハネ以外の共観福音書すべてに記されていますが、マタイ26:39

 

 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 

 この時のイエスさまの様子を、マタイ26:37-38では「悲しみ、もだえ始められた。」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」 ルカ22:44には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と描写されています。

 

 イエスさまはご自分がこの世に遣わされてきた目的、使命をよーくご存じでした。罪に汚れた人間を、やがて、永遠の滅びに投げ込まれるしかない人間を、あわれに思われた神さまは、そんな人間さえも愛してくださった神様は、何とか救ってあげたいと思われたのです。ですから、人として遣わされたひとり子イエスさまを、そんな罪人のために、身代わりに罰することによって、救おうとされたのです。

 それを十分知っておられたイエスさまが、この祈りをなさったのです! そこには、直前に迫った十字架刑に対する、恐れ、人々のあざけり、みじめな姿をさらす恥ずかしさ、何よりも長時間にわたる堪えがたい苦痛、人としてのイエスさまは、できるものなら避けさせてほしい! そんな思いが、願いが、まず、祈りの言葉として出てきたのです。

 けれども、祈りはそれだけでは終わりませんでした。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈るのです。これがイエスさまの祈りの結論なんです! このイエスさまのゲツセマネの祈りは、ある面、私たちの祈りの模範でもあると思うのです。

 

 私たちは、祈りの中で、実にたくさんのお願いをしているのではないでしょうか? 聖書は、求めなさい、と言っているので、それは間違った祈りではありません。 ただ、「神さま! なんとしても、この願いを叶えてください。」と言う祈り方は聖書的ではないのです。 熱心に祈ることは大切です。「この願いを聞いてくださらないと困るんです」という必死の祈りは、誰でも、人生の中で何度かあるでしょう。 しかし、そうであっても、最後は、「あなたの御心がなりますように」と祈らせて頂きたいのです。 それが「その敬虔のゆえに聞き入れられました」となるからです。

 

 神さまはこう約束されています。 イザヤ55:8-9

 

  「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―

  天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 

 私たちが思っているより、考えているより、はるかに高い、大きな祝福を用意してくださっている神さまを心から信じて、「御心がなりますように」と祈っていきましょう。

 
 

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