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あわれみ深くあれ

2024.8.25 ルカの福音書6章27-36節   

 

(1)不可能な命令

本日の聖書箇所は、マタイの福音書5章における「山上の説教」にあたる内容です。ルカ6:27-30を見てみましょう。

 

 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

 

最初の言葉は、「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います」とあり、この直前に、4つの幸い、4つの哀れについて語られたことに続く内容です。今、貧しい者、餓えている者、泣く者、憎まれている者は幸いだ、と語られました。現実的には、幸いどころか、これほど哀れな状態はない!しかし、ここに出てくる貧しさ、餓え、は心の状態を現している言葉であり、貧しさは、心の貧しさ=へりくだった心であり、=自分のうちには何の頼りにするものがない、また、餓えているは=自分で餓え渇きをいやすことはできない、自分ではどうすることも出来ない状態を表しているのです。そんな自分を見て、もう泣くことしかできない、泣いて、泣いて、徹底的に自分に失望する。 もう、真剣に、つきつめて考えたら、絶望するしかない! 聖書は、その自分のどうしようもない状態を理解する事こそが幸いだという!  なぜでしょうか? もう神さまに頼ることしかできないからなのです! 幸いな人生とは、真の神を信じ、この神により頼んで歩むことなのだ! 神を喜び、祈りを通して神と交わり、神に感謝して歩むことが、人間にとって、私にとって、最も幸いなことだということを、前回お語りしました。 その前提に立って、今日のイエスさまの言葉が続くのです。

 

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

 

こう言われるのですが、これは人間にとって、生まれながらの人間にとっては、全く無理、不可能な事ではないでしょうか! 普通の受け止め方としては、「そうだな、そうありたいものだ、努力して、少しでも近づけたらいいな」というような、いわゆる、道徳訓として見上げるだけのものになってしまうのではないでしょうか? 遠い所から、きれいな富士山を見て、ああ美しいな、と見ているような、まあ、高い道徳として尊敬している、という、そんな風に見ているのが、多くの人の姿なのでは?

 しかし、イエスさまは「敵を愛せ。憎む者に善を行え。のろう者を祝福せよ。侮辱する者のために祈れ」と命じておられるのです。イエスさまは、私たちにできないことを、不可能なことをせよと言っているのでしょうか? 神さまは、そんな矛盾したことを私たちに命じる訳はないでしょう! ここが、今日私たちが受け止めるべき大切な所なのです!

 

(2)人の愛と神の愛

 私たち、生まれながらの人間には不可能なのです。この命令は、神の愛をもってしかできないことなのです! 人はよく愛を口にします。男女の愛、友との愛、夫婦、親子、兄弟の愛。みんなそれぞれの愛には偽りはないのです。 しかし、人間の愛は、結局のところ、「~だから」という、理由付き、条件付きの愛なのです。 「好き」という感情と言った方がいいかも知れません。

 孫が「じーじとばーば、だーい好き」と言ってくれると嬉しい訳です。が、なぜそういう言葉が出てくるのか? 孫にとって、じーじもばーばも優しくしてくれるし、誕生日やそれ以外の時にも、欲しいものを買ってくれるし、一緒に遊んでくれるし、だから、「だーい好き!」なのです。孫が来ても、ぶすっとした顔をして、うるさいな、早く帰ってくれないかなあ、みたいな態度をしていたらどうでしょう?

人間の愛は、突き詰めると、見返りを求めるものなのです!

 

 しかし、神の愛、アガペーの愛は、人間の愛とは本質的に違うのです!「~だから」愛するのではなく、「~にもかかわらず」愛してくださるのが神の愛なのです! アガペーの愛、この神の愛は、キリストにおいて初めて具体的に現わされました。この方こそ、正真正銘、目に見え、手に触れ、耳で聞くことができる、神の愛そのものなのです! キリストは、まことに神の愛の現れなのです! イエス・キリストにおいてのみ、私たちは、神の愛を見、神の愛を体験し、神の愛を知ることができるのです! 

神の愛は、自らのためではなく、他者のために生きる生き方なのです。キリストの生涯を歌った賛美歌121番の3節にはこうあります。

 

すべてのものを 与えし末  死のほか何も  報いられで

十字架の上に 上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ

 

キリストの生涯は、与え尽くす歩み! 報いは十字架の死のみ、十字架にかけられてまでも、敵を赦す祈りをささげたのです。

 キリストのみが、敵を愛し、自分を憎み、のろい、侮辱する者のために祈ることができるお方なのです! 神は愛だから!

 

(3)新しく生まれた者として

 では最初の矛盾、疑問に戻りましょう。 なぜ、愛なる神しかできないことを、イエスさま私たちにせよと命じるのでしょうか? 

 その理由はただ一つ! 神は私たちを、それが出来るように変えることができるからなのです! もっと言うと、新しく生まれさせてくださって、神の子にしてくださるから!

第2コリント5:17にこうあります。

 

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

ボーン・アゲインという言葉があります。私たちは、キリストを信じたとき、新しく生まれたのです!

そして、ローマ人への手紙5:5にこうあります。

 

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている。

 

 なんと、私たちの心に、自分本位の、生まれながらに人間が持っている愛ではなく、神の愛、アガペーの愛が注がれている、というのです。

 みなさん!私たちはものすごい世界に導き入れられている、ということをもっと、もっと、もっーと 知るべき、自覚すべきなのです。

 神は、私たちのような、「恩知らずの悪人」にも、こんな者であるにも「かかわらず」、愛してくださる、あわれみ深いお方なのです。 私たちは、ただ、ただ、この神のあわれみによって救われ、神の子とされ、何と神の愛、アガペーの愛を心に注いで頂いている者なのです。

 だから、その愛をもって、頂いた神の愛をもって「敵を愛し、自分のことを憎み、のろい、侮辱する者のために祈れ」と命じられるのです。

 私たちの歩みは、キリストを模範とする歩みです。このお方があわれみ深いお方であるように、私たちも神の愛によって、あわれみ深い者とさせて頂きましょう。 

   

                          

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